津田梅子

概要

 津田梅子(つだうめこ)元治元年甲子(きのえね1)十二月三日(1864年12月31日)生誕 -昭和四(1929)年八月十六日逝去(六十四歳)は、教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英學塾(のちの津田塾大学)創立者。

経歴

 元治元年甲子(きのえね1)十二月三日(1864年12月31日)に、江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で幕臣の父・津田仙と母・初子夫妻の次女として誕生。

 父の仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、農園の手伝いもしている。開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、明治四年十一月十二日(1871年12月23日)に岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。

 梅子はアメリカジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。五月に森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされる。十月に2名が帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)だった。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力した。

梅子は再びランマン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治六(1873)年七月に特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。

 明治十一年(1878年)にコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。明治十五(1882)年七月にアーチャー・インスティチュートを卒業。同年十一月に日本へ帰国する。

 梅子らは帰国したものの、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野は乏しかった。。明治十六年(1883年)には、外務卿・井上馨邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会する。伊藤から華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。明治十八年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学院で英語教師に就任する。

 日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、2年間の留学を許可される。明治二十二(1889)年七月に再び渡米する。梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ大学のひとつであるブリンマー大学で生物学を専攻する。

 明治二十五(1892)年八月に梅子は帰国。再び華族女学校に勤める。明治二十七年(1894年)に明治女学院で講師を務める。明治三十一(1898)年五月に女子高等師範学校教授を兼任する。

 明治三十三年(1900年)に梅子は官職を辞職する。同年七月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると明治四十二(1909)年九月十四日に東京麹町区に開校した。梅子は塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めた。

 昭和四(1929)年八月十六日に津田梅子は逝去。六十四年の生涯を終えました。


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