新渡戸稲造

概要

 新渡戸稲造(にとべいなぞう)文久二年壬戌(みずのえいぬ59)八月八日(1862年9月1日)生誕 -昭和八(1933)年十月十五日薨去(七十一歳)は、教育者・思想家。

経歴

 文久二年壬戌(みずのえいぬ59)八月八日(1862年9月1日)に陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として誕生。幼名は稲之助。

 新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入学する。その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父新渡戸傳は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸の家計を大いに助けた。

 明治十(1877)年九月に当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学した。農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。

 明治十七年(1884年)に「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンズ大学( Johns Hopkins University)に入学した。ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、札幌農学校助教授に任命される。官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク(独:Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg、英:Martin Luther University of Halle-Wittenberg)より農業経済学の博士号を得る。

 明治三十四年(1901年)に札幌農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。明治三十六年(1903年)に京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。同年、牧野伸顕文部大臣の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸稲造は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長に就任する。

 大正二年(1913年)に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田塾顧問を務めており、津田梅子亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

 大正九年(1920年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた。昭和三年(1928年)に札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。

 昭和八年(1933年)に日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。昭和八(1933)年十月十五日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となった。新渡戸稲造は七十一年の生涯を終えました。

著作


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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