加藤友三郎

概要

 加藤友三郎(かとうともさぶろう)文久元年辛酉(かのととり58)二月二十二日(1861年4月1日)生誕- 大正十二(1923)年八月二十四日薨去(六十二歳)は、海軍軍人、政治家。位階勲等功級爵位は、正二位大勲位功二級子爵。没後元帥海軍大将。

経歴

 文久元年辛酉(かのととり58)二月二十二日(1861年4月1日)に広島藩士・加藤七郎兵衛の三男として広島城下大手町(現在の広島市中央区大手町)で誕生。

 幼年期に広島藩校学問所・修道館(現、修道中学校・修道高等学校)卒業。明治十七(1884)年十月に、海軍兵学校七期卒業。明治二十一(1888)年十一月に海軍大学甲号学生となる。

 日清戦争で巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍する。黄海海戦で活躍する。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤友三郎、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。

 大正四(1915)年八月十日に第二次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年八月二十八日に海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内正毅(てらうちまさたけ)・原敬・高橋是清と三代の内閣にわたり海相に留任した。

 大正十年(1921年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称揚されたという。

 大正十一(1922)年六月十二日に加藤友三郎内閣が発足した。しかし大正十二(1923)年八月二十四日に首相在任のまま大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で薨去。六十二年の生涯を終えました。


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