袁世凱

概要

 袁世凱(えん・せいがい、ユエン・シーカイ、拼音(ピンイン): Yuán Shìkǎi、英語:Yuan Shikai)咸豊(かんぽう)九年八月二十日(1859年9月16日)生誕 -1916年6月6日逝去(五十六歳)は、中国清末民初期の軍人・政治家。初代中華民国大統領。北洋軍閥の総帥。大清帝内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大統領に就任。

経歴

 咸豊(かんぽう)九年八月二十日(1859年9月16日)に清国河南省淮陽区項城市で誕生。官僚や軍人を多く輩出した地元でも指折りの名族であった。袁世凱は、若い頃から立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。

 袁世凱は官僚を志して科挙に2度挑戦したが、どちらも1度目の試験に及第せず断念した。そこで軍人となることを志し、1881年に李鴻章(りこうしょう)幕下の淮軍(わいぐん)に身を投じ、朝鮮に渡った。

 袁世凱は朝鮮に政経両面ともに清の勢力を扶植して、対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。朝鮮は清に軍の派遣を要請し、日本も対抗して派兵した。これにより日清戦争が勃発する。

 しかし日清戦争は清の大敗に終わり、李鴻章は責任を問われ失脚、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。清の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。

 袁世凱は日清戦争後間もない1895年10月に陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。この軍事力こそが袁世凱の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。

 義和団の乱では袁世凱は自らの治下での反乱を逸早く鎮圧し、新建陸軍の強さを証明した。西太后を戴く朝廷は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁世凱は諸外国との盟約を結び、朝廷の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清軍はほとんど壊滅し、袁世凱の力は相対的に強まることとなった。

 日露戦争時、清は表面上は厳正中立であったが、袁世凱は諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣した。1903年11月中旬、袁世凱は青木宣純と天津で会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう」と返答した。袁世凱は選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させた。

 この時期から袁世凱は政治家としても活躍した。彼の採った政策とは、国際などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命に彼が大総統になった後も変化がなく、日独露英仏の列強五カ国から借りた。

 1908年に光諸帝が崩御、その翌日に西太后も病没して宣統帝が即位。醇親王は戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでおり、1909年に袁世凱を失脚させた。さらに袁世凱を殺害する計画もあったが、内部情報を得てかろうじて北京を逃れた。全ての職を失った袁世凱は、安陽市近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなる。

 1911年10月に辛亥革命が勃発。袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや革命派に寝返り。1912年2月12日、宣統帝の上諭が発布されて清国最後の皇帝が退位、清朝は滅亡した。袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に就任した。

 1915年に袁世凱は帝政を復活させた。1916年に国号を「中華帝国」に改めた。こうした袁世凱の行動は、自らの野望を果たすためという面もあった一方で、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方もある。

 1916年6月6日袁世凱は五十六年の生涯を終えました。


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