尾崎行雄

概要

 尾崎行雄(おざきゆきお)安政五年戊午(つちのえうま55)十一月二十日(1858年12月24日)生誕 -昭和二十九(1954)年十月六日薨去(九十五歳)は、政治家。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。

経歴

 安政五年戊午(つちのえうま55)十一月二十日(1858年12月24日)に相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)で弾正台(だんじょうだい)の役人、父・尾崎行正の子として誕生。幼名は彦太郎。

 行雄は、父・行正に従い明治元年(1868年)に東京府麹町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学ぶ。その後、父が熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許された。

 明治七年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童児局に入学するやいなや塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。

 明治八年(1875年)のクリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける。その後、慶應義塾を退学し、明治九年(1876年)に工学寮に入学した。一年足らずで工学寮を退学。その後、慶應義塾に戻る。 明治十二年(1879年)に福澤諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。

 明治十五年(1882年)に『報知新聞』の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加する。尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。

 明治二十三年(1890年)の第一回衆議院総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。明治三十六年(1903年)から明治四十五年(1912年)まで東京市長に就任。

 支持層の高齢化に加えて自身の健康も優れず、昭和二十八年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第二十六回衆議院総選挙)で落選した。これを期に政界からの引退を表明した。尾崎行雄は昭和二十九(1954)年十月六日に薨去。九十五年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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