犬養毅

概要

 犬養毅(いぬかいつよし)安政二年乙卯(きのとう52)六月四日(1855年6月4日)生誕-昭和七(1932)年五月十五日薨去(七十六歳)政治家。位階勲等は正二位勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。

経歴

 安政二年乙卯(きのとう52)六月四日(1855年6月4日)に、備中国賀陽郡庭瀬村字川入(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として誕生(のちに犬養と改姓)。

 備中松山藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍を修めた後に明治九年(1876年)に上京して慶應義塾に入学。漢学塾・二松學舎では三島中洲に漢学を学ぶ。慶應義塾在学中の明治十(1877)年三月に、『郵便報知新聞』(のちの『報知新聞』)の記者として西南戦争に従軍した。

 明治二十三年(1890年)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。明治三十一年(1898年)の第一次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

 明治四十年(1907年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。明治四十四年(1911年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天(みやざきとうてん)の生家に匿う。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。

 昭和六(1931)年十二月十三日に犬養毅は第二十九代内閣総理大臣に就任。高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開に取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これにより日本経済は世界恐慌から最速で脱出した。

 昭和七(1932)年五月十五日に政府襲撃事件を計画していた青年将校の黒岩勇が応接間に突入して犬養毅を銃撃した。同時に三上卓も発砲して弾丸は頭部に命中した。23時26分に犬養毅は絶命した。犬養毅は七十六年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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三国志演義 第六巻
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三国志演義 第八巻
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三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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