頭山満

概要

 頭山満(とうやまみつる)安政二年乙卯(きのとう52)四月十二日(1855年5月27日)生誕 -昭和十九(1944)年十月五日逝去(八十九歳)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者。玄洋社の総帥でもある。号は立雲。

経歴

 安政二年乙卯(きのとう52)四月十二日(1855年5月27日)に筑前国早良郡(さわらぐん)西新町の福岡藩士・筒井亀策の三男として誕生。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。

 頭山は十六歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む高場乱(たかば おさむ)という男装の女医が開いていた興志塾(高場塾)に入門する。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。

 明治九年(1876年)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山はこれに呼応して旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)したが、それに参加し尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている。

 西南戦争の翌年の明治十一(1878)年五月十四日に大久保利通が暗殺された(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して、頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した。

 玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された。自由民権運動を目的とした結社ではあったが、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。

 明治二十八年(1895年)に広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治三十年(1897年)に頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。明治四十四年(1911年)に辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養毅とともに中国に渡って会見した。袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。

 昭和十九(1944)年十月五日に頭山満は逝去。八十九年の生涯を終えました。


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