山本権兵衛

概要

 山本権兵衛山本權兵衞 やまもとごんのひょうえ/ごんべえ)嘉永五年壬子(みずのえね49)十月十五日(1852年11月26日)生誕-昭和八(1933)年十二月九日薨去(八十一歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級伯爵。

経歴

 嘉永五年壬子(みずのえね49)十月十五日(1852年11月26日)に薩摩国鹿児島郡の鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)で薩摩藩士の山本五百助盛珉の六男として誕生(幼名も権兵衛)。諱は盛武。 

 戊辰戦争後、明治二年(1869年)に当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所、海軍兵学寮と 海軍軍人への道を歩むことになった。海軍兵学寮では実戦を体験した山本らの学生は、実戦を体験していない教官に素直に従わないこともあった。「教官はそう言われるが、実戦での体験では、そのようなことは無い」と批判するのが常套手段であった。

 明治二十年(1887年)に海軍大臣伝令使となり、海軍次官・樺山資紀の欧米視察旅行に一年以上も随行した。明治二十二年(1889年)に大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。

 明治二十四年(1891年)に海軍大臣・西郷従道に海軍省官房主事(後の海軍省主事)に任命され、日清戦争時には海軍大臣副官となる。日清戦争後は、三国干渉から将来のロシア帝国の脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍における行政改革を断行した。

 明治三十一年(1898年)に西郷従道の推薦により四十七歳で第二次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。

 開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。 開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。

 薩摩閥の元老・大山巌の支持で山本に組閣の大命が下る。15年振りの薩摩出身者であり、大正二(1913)年二月二十日に政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。大正十三(1924)年一月七日に山本内閣は総辞職した。

 昭和八(1933)年十二月九日に山本権兵衛は薨去。八十一年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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