乃木希典

概要

 乃木希典(のぎまれすけ)嘉永二年己酉(つちのととり46)十一月十一日(1849年12月25日)生誕 – 大正元(1912)年九月十三日薨去(六十二歳)は、江戸時代末期の長府藩士。明治時代の陸軍軍人、教育者。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第十代学習院長。

 嘉永二年己酉(つちのととり46)十一月十一日(1849年12月25日)に長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子との三男として、江戸長府藩上屋敷(現、東京都港区六本木)に誕生。

 安政六年四月(1859年5月)に乃木は漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。万延元年一月(1860年2月)以降は鏑流馬(やぶさめ)、弓術、西洋流砲術、槍術、剣術なども学び始めた。

 元治元年三月(1864年4月)乃木は学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して萩(現、山口県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。

 元治元年九月(1864年10月)から、乃木は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。慶応元年(1865年)に第二次長州征討が開始されると、同年四月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。乃木は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現、山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた。

 慶応四年一月(1868年2月)に報国隊の漢学助教となるが、同年十一月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ。明治二年七月(1869年8月)に京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治三年一月四日(1870年2月4日)に豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として、馬廻格100石を給された。

 明治四年十一月二十三日(1872年1月3日)に黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した。明治四年十二月(1872年1月)に正七位に叙され、名を希典と改めた。

 明治二十五(1892)年十二月八日に10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治二十七(1894)年八月一日に日本が清に宣戦布告して日清戦争始まると、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。

 明治三十七(1904)年二月八日に日露戦争が勃発。旅順要塞攻撃は明治三十八(1905)年一月一日に、正面が突破され、ロシア軍の予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になったロシア旅順要塞司令官は、乃木に対し、降伏書を送付した。これを受けて一月二日に戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した。

 明治四十(1907)年一月三十一日に軍事参議官の乃木は学習院長を兼任することとなった。大正元(1912)年九月十三日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、乃木希典は殉死した。乃木希典は六十二年の生涯を終えました。


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