西園寺公望

概要

 西園寺公望(さいおんじきんもち)嘉永二年己酉(つちのととり46)十月二十三日(1849年12月7日)生誕 -昭和十五(1940)年十一月二十四日薨去(九十歳)は、公家、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。

経歴

 嘉永二年己酉(つちのととり46)十月二十三日(1849年12月7日)に、清華家(せいがけ)の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として、山城国京都(現在の京都府京都市)にて誕生。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)。二歳の時に、同族で清華家の西園寺師季(さいおんじ もろすえ)の養子となった。

 西園寺は学問を伊藤猶斎や秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている。また福沢諭吉の『西洋事情』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった。

 西園寺は若年でもあり、岩倉具視や三条実美のような幕末における倒幕活動に強く参画していなかった。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発した。慶応三年十二月九日(1868年)に三職の一つ、参与の一人となった。

 明治元年十月二十八日(1868年)に新潟府知事に就任した。明治二年(1869年)に東京に戻った西園寺は木戸孝允らのすすめで開成学校に入り、フランス語の勉強を始めた。大村益次郎の薦めで法制についても勉強するようになった。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。

 明治三年十二月(1871年)に官費でフランスに留学のために出国した。明治四年二月(1871年)にパリに到着した。当時のフランスは、普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊のまっただ中であった。明治十三年十月二十一日(1880年)に留学を終え、10年ぶりに帰国した。

 明治十四(1881)年十一月二十四日に西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った。参事院は伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関であった。明治二十七年(1894年)に病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第二次伊藤内閣に初入閣を果たした。

 明治三十三年(1900年)に伊藤による立憲政友会旗揚げに創立委員として参画し、最高幹部である総務委員の一人となった。明治三十九(1906)年一月七日に第一次桂内閣から禅譲される形で第一次西園寺内閣が成立した。

 明治四十四(1911)年八月三十日に成立した第二次西園寺内閣は、内閣の構成をほとんど政友会が決めるなど、独自性が強いものになったが、それは西園寺よりも原の影響が大きいものであった。

 昭和十五(1940)年十一月二十四日に西園寺公望は薨去。九十年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA