箕作麟祥

概要

 箕作麟祥(みつくりりんしょう / あきよし)弘化三年丙午(ひのえうま43)七月二十九日(1846年9月19日)生誕 -明治三十(1897)年十一月二十九日薨去(五十一歳)は江戸時代末期の幕臣。明治時代の官僚、洋学者、法学者。男爵。法学博士。

経歴

 弘化三年丙午(ひのえうま43)七月二十九日(1846年9月19日)に箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津山藩邸で誕生。幼名は貞太郎(のち貞一郎)。

 藤森天山・安積艮斎(あさかごんさい)に漢学を、江戸幕府の蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)で蘭学を学んだ後、ジョン万次郎(中浜万次郎)に英学を学んだ。文久元年六月二十九日(1861年8月5日)に蕃書調所の英学教授手伝並出役。このころから家塾を開き英学を教授する。元治元年(1864年)に外国奉行支配翻訳御用頭取となり、福沢諭吉や福地源一郎らとともに、英文外交文書の翻訳に従事した。

 慶応三年(1867年)にナポレオン三世のパリ万国博覧会に際して、徳川慶喜の弟・徳川昭武と渋沢栄一らと一緒に随行。その後、徳川昭武とともにフランスに留学した。

 明治元年二月二十四日(1868年3月17日)に帰国後、明治新政府の下で、開成所御用掛から兵庫県御用掛となって新設の神戸洋学校教授に着任。時の兵庫県令・伊藤博文(伊藤俊介)は、騎馬で出迎え歓迎を表した。明治二年(1869年)に東京に戻り、外国官(現、外務省)翻訳御用掛となるが、大学南高(現、東京大学)大学中博士に転じる。

 明治二年(1869年)に参議・副島種臣からフランス刑法典の翻訳を命じられ、明治三年(1870年)に江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられた。明治四年(1871年)に文部省が設置されると、その基礎固めに参画し、学制の起草・制定にあたっては、起草委員長ともいうべき地位にあって、主導的役割を果たした。

 日本で初めて「権利」「義務」という訳語を用い、「動産」「不動産」「治罪法」「義務相殺」「未必條件」などの訳語を新規に創作し、5年の歳月をかけてフランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』(1874年)は、日本国の人々に初めて近代法典というものを実物で知らしめた。その後の日本の近代的法制度の整備に多大な影響を与え、日本における法律学の基礎を築いた。

 箕作麟祥は日本における「法律の元祖」と評される。Constitution(国家の根本の法)を「憲法」と訳したのも箕作麟祥である。福沢諭吉は「律例」、加藤弘之は「国憲」、井上毅は「建国法」とそれぞれ訳していた。

 明治三十(1897)年十一月二十九日に箕作麟祥は薨去。五十一年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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