和宮親子内親王

概要

 和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)弘化三年丙午(ひのえうま43)閏五月十日(1846年7月3日)生誕-明治十(1877)年九月二日薨去(三十一歳)は仁孝天皇の第八皇女。江戸幕府第十四代将軍・徳川家茂の正室(御台所)家茂死後に落飾(らくしょく)し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。

経歴

 弘化三年丙午(ひのえうま43)閏五月十日(1846年7月3日)に京都御所の東に隣接する橋本邸において、仁孝天皇の第八皇女として誕生。母は側室・橋本経子(観行院)。

 嘉永四年七月十二日(1851年8月8日)に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約する。安政五年六月二十七日(1858年8月6日)に日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書で京都に知らされた。京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へのぼることになった。安政五年十二月二十四日(1859年1月7日)に間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。

 万延元年十月十八日(1860年11月30日)に孝明天皇は和宮の降嫁を勅許した。文久元年十月二十日(1861年11月22日)に和宮一行は桂御所を出立した。同年十一月十五日(1861年12月16日)和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った。同年十二月十一日(1862年1月10日)に和宮は江戸城本丸大奥に入る。

 慶応二年七月二十(1866年8月29日)に夫の徳川家茂は大坂城で脚気衝心のため薨去した。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止された。慶応四年四月九日(1868年5月1日)に和宮は江戸城から清水邸へ退去した。

 明治二年一月十八日(1869年2月28日)に和宮一行は東海道を京都へと向かい、同年二月三日(同年3月15日)に京都に帰着した。聖護院に入り、同年二月二十四日(同年4月5日)に参内して明治天皇と対面する。聖護院の屋敷が栄御殿と改称される。明治三年一月二十五日(1870年2月25日)に和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果たした。

 明治七(1874)年七月に東京に戻る。麻布市兵衛町(現、港区六本木1丁目)にある元八戸藩主・南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになった。

 明治十(1877)年九月二日に和宮親子内親王は薨去。三十一年の生涯を終えました。

伝記・評伝


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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