斎藤一

概要

 斎藤 一(さいとう はじめ)天保十五年甲辰(きのえたつ41)一月一日(1844年2月18日)生誕 -大正四(1915)年九月二十八日逝去(七十一歳)は、江戸時代末期の新選組(新撰組)隊士。明治時代の警察官。階級は警部。

経歴

 天保十五年甲辰(きのえたつ41)一月一日(1844年2月18日)に江戸で父・山口右助、母・ますの次男として誕生。

 十九歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり、斬ってしまう。父・右助の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。

 文久三年三月十日(1863年4月27日)に芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組(新撰組)の前身である壬生浪士組を結成。同日、斎藤一を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は二十歳にして副長助勤に抜擢された。後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務める。

 元治元年六月五日(1864年7月8日)の池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。慶応三年三月(1867年4月)に伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、斎藤も御陵衛士に入隊する。間者として潜入していたとされる。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが勃発。斎藤一はその後に続く戊辰戦争に参加、斎藤はいずれも最前線で戦った。斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、慶応四年閏四月五日(1868年5月14日)に白川口の戦いに参加。同年八月二十一日(同年10月6日)の母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい)にも参加した。

 明治元年九月二十二日(1868年11月6日)に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。

 会津藩は降伏後改易され、会津松平家は家名断絶となったが、明治二年十一月三日(1869年12月5日)に再興を許された。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、越後高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく藩地は下北半島を選択。藩名は新たに斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴いた。

 明治七(1874)年七月に東京に移住。警視庁に採用される。明治十(1877)年二月に「西南戦争」が勃発。斎藤は西南戦争に参加する。明治十八年(1885年)に警部補、明治二十一年(1888年)に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治二十五(1892)年十二月に退職する。警視庁退職後に明治二十七(1894)年四月から、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現、国立科学館史跡・湯島聖堂)の看守(守衛長)に奉職。明治三十一年(1898年)まで在職。

 大正四(1915)年九月二十八日に斎藤一は逝去。七十一年の生涯を終えました。


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