井上毅

概要

 井上 毅(いのうえ こわし) 天保十四年癸卯(みずのとう40)十二月十八日(1844年2月6日)生誕- 明治二十八(1895)年三月十七日薨去(五十歳)は、江戸時代末期の熊本藩士。明治時代の官僚、政治家。子爵。法制局長官。文部大臣。

経歴

 天保十四年癸卯(みずのとう40)十二月十八日(1844年2月6日)に肥後国熊本藩家老長岡是容(監物)の家臣・飯田権五兵衛の三男として誕生。幼少時から神童ともてはやされ、家事をしながら読書を欠かさずこなし、勉強熱心な姿勢が主君・長岡是容に気に入られ、井上茂三郎の養子になる。

 元治元(1864)年十月に蟄居し横井小楠を尋ね討論を交わした(その時の様子を『沼山対話』として記録)。慶応三(1867)年九月に江戸幕府が開設した横浜のフランス語伝習所へ移ったが、同年十月十四日(1867年11月9日)の大政奉還で幕府が滅亡。翌慶応四年(明治元年)(1868)年一月からの戊辰戦争で同年七月(同年8月)に帰郷した。

 明治三(1870)年九月に大学南校で学ぶ。ここで教員見習に当たる少舎長に就任、十二月に中舎長に昇進したが、翌明治四年(1871年)に辞職する。フランス語ができたため欧使節団(8人)の一員として明治五年九月に横浜から出航して渡欧して司法制度の調査研究を行った。日本固有の文化・習慣・法律の保持を考えるようになり、ナポレオン法典翻訳による民法制定を企画していた江藤新平と思想の上で決別した。

 明治十(1877)年一月に太政官書記官に就任、西南戦争が勃発すると伊藤博文の随行員として京都に移った政府へ向かった。東京へ引き上げた政府の残務処理を行った後に東京へ帰還した。翌明治十一年(1878年)の大久保利通の暗殺後は岩倉具視のブレーンとして活躍。

 明治十四(1881)年三月に憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるや否や、福沢諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、イギリスに範をとる憲法制度に反対した。『欽定憲法考』、『憲法意見第一』、『憲法綱領』などの調査書類を提出。漸進主義とプロセイン(ドイツ)型国家構想を主張した。

 明治十九(1886)年五月に伊藤の呼びかけで憲法に着手、翌明治二十(1887)五月に憲法草案に甲案・乙案を伊藤へ提出し、草案を参考にして憲法作成は始動した。草案完成に向けて全力を尽くし、明治二十一(1888)年四月二十七日に草案が完成、3日後の三十日に伊藤は首相を辞任、代わりに憲法審議機関として枢密院を創設し、自身は議長として引き続き憲法作成に取り掛かった。明治二十二(1889)二月十一日に大日本帝国憲法は公布された。

 明治二十六(1893)年三月七日に第二次伊藤内閣において文部大臣を務める。任期は結核の更なる悪化もあり翌明治二十七(1894)年八月二十九日までの約1年半に過ぎなかったが、学制改革を目標とし、小学校就学の増加および実業教育の盛り込みを政策に掲げ改善に全力を尽くした。

 明治二十八(1895)年三月十七日に井上毅は薨去。五十年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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