田中光顕

概要

 田中光顕(たなかみつあき)天保十四年癸卯(みずのとう40)閏九月二十五日(1843年11月16日)生誕 -昭和十四(1939)年三月二十八日薨去(九十五歳)は、江戸時代末期の土佐藩士。明治時代の官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称はを顕助、号は青山。

経歴

 天保十四年癸卯(みずのとう40)閏九月二十五日(1843年11月16日)に土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治と金沢正敏の娘である献の長男として、土佐国高尾郡佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)で誕生。

 土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。

 第二次長州征討では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。慶応三年(1867年)に中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。

 維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、明治十二年(1879年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。

 明治三十一年(1898年)に宮内大臣。約11年間にわたり、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。明治四十(1907)年九月二十三日に伯爵に陞爵。明治四十二年(1909年)に収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。昭和維新運動に理解を示し、昭和十一年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに動いた。

-昭和十四(1939)年三月二十八日に田中光顕は九十五年の生涯を終えました。


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