黒田清隆

概要

 黒田 清隆(くろだ きよたか)(旧字体:黑田 淸隆)天保十一年庚子(かのえね37)十月十六日(1840年11月9日)生誕-明治三十三(1900)年八月二十三日薨去(五十九歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称、仲太郎、了介。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)十月十六日に薩摩国鹿児島城下新屋敷町(現、鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲左衛門清行の長男として誕生。黒田家は家禄は4石の下級武士だった。

 黒田は示現流(じげんりゅう)門下でも有数の使い手で、後年宗家より皆伝を受けている。黒田は幕臣・江川英龍に学び、砲手になった。慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年三月、北陸道鎮撫総督・高倉永祜(たかくらながさち)の参謀に、山縣有朋とともに任命された。

 明治維新後、明治二(1869)年十一月二十二日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治三(1870)年五月に樺太専任の開拓次官となった。七月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。十月二十日に建議して、樺太は三年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。

 明治四(1871)年一月から五月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、十月十五日に開拓長官東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。明治七(1874)年六月二十三日、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。同年八月二日に参議兼開拓長官となった。黒田は榎本武揚ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用した。

 醜聞と疑獄事件は後々まで人々に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治二十年(1887年)に第一次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて明治二十一(1888)年四月に第二代内閣総理大臣となった。「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治二十二(1889)年十二月十五日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

 首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治二十五(1892)年八月八日に第二次伊藤内閣の逓信(ていしん)大臣になった。明治二十八年(1895年)に枢密院議長となった。明治二十六年(1893年)から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。

 明治三十三(1900)年八月二十三日に黒田清隆は脳出血のため薨去。五十九年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA