山縣有朋

概要

 山縣有朋(やまがた ありとも、常用字体: 山県有朋)天保九年戊戌(つちのえいぬ35)閏四月二十二日(1838年6月14日)生誕-大正十一(1922)年二月一日薨去(八十三歳)は、江戸時代末期の長州藩士。明治時代の陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第三・九代)。

経歴

 天保九年戊戌(つちのえいぬ35)閏四月二十二日(1838年6月14日)に萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元仲間組の山縣三郎有稔(中村喜左衛門の子)の長男として誕生。父の有稔は手子役という、奉行所の下級職人であったが、国学を学び歌を読むなど、学問に優れていた。

 15歳で山縣は元服し、蔵元両人所、次いで明倫館の手子役となった。その後は代官所の手子役となり、農村を回って実務を学んだ。その後御徒目付の家来の横目役についた。この頃には撃剣・槍術などの武芸にも励んだ。

 安政五年(1858年)に時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者が京都に派遣されることとなった。派遣された6名のうち、4人は杉山松助や伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を始めとする松下村塾の塾生であり、山縣が選ばれたのは杉山が吉田松陰に推薦したためであるといわれる。

 慶応二年(1866年)の第二次長州征討で、奇兵隊の実権を握り高杉晋作の海軍と協力して小倉を占領する活躍を見せた。鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊本隊にも出陣の命令が下り、山縣は、大坂、次いで江戸へ下向した。

 明治二年(1869年)に木戸孝允や西郷隆盛らに願い出ていた海外留学の許可が下り、山縣は西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。翌明治三年(1870年)にアメリカ経由で帰国した。

 明治十(1877)年二月に勃発した西南戦争では、山縣は陸軍卿兼任のまま、現場総指揮官である参軍に就任した。海軍側の参軍として川村純義も就任したが、陸軍が中心であった政府軍の戦略の中心を担うこととなる。錬度や士気で優る薩摩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。政府軍も海軍を使い薩摩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。

 明治十六(1883)年に山縣は内務卿に就任。明治十八(1885)年十二月二十二日に山縣の願いで参謀本部長の兼任は解かれた。同日に内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第一次伊藤内閣の内務大臣となった。明治二十二(1889)年十二月二十四日に山縣は内閣総理大臣(第三代)に就任した。明治二十四(1891)年五月六日に首相を辞任した。

 明治三十一(1898)年十一月八日に第二次山縣内閣が発足した。明治三十三(1900)年十月十九日に山縣内閣は総辞職した。山縣有朋は大正十一(1922)年二月一日に八十三年の生涯を終えました。


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