大隈重信

概要

 大隈重信(おおくましげのぶ)天保九年戊戌(つちのえいぬ35)二月十六日(1838年3月11日)生誕- 大正十一(1922)年一月十日薨去(八十三歳)は、江戸時代末期の佐賀藩士。政治家、教育者。従一位大勲位候爵。

経歴

 天保九年戊戌(つちのえいぬ35)二月十六日(1838年3月11日)に大隈重信は佐賀城下会所小路(現、佐賀市水ヶ江)で父・佐賀藩士・大隈信保と母・三井子の長男として誕生。幼名は八太郎。

 重信は七歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。このころ、枝吉神陽(えだよししんよう)から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟(ぎさいどうめい)」に参加した。

 慶応元年(1865年)に長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で教頭格となって指導にあたった。またフルベッキに英学を学んだ。

 明治維新後の慶応四年(1868年)に幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎で外国官副知事に就任した。明治二(1869)年一月十日、再び参与に任じられ、一月十二日からは会計官御用掛に任ぜられた。七月八日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。七月二十二日に民部大輔に転じ八月十一日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた。

 明治七(1876)年一月二十六日には三条実美により、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる。明治十一(1878)年五月十四日に大久保が暗殺されると、政府の主導権は伊藤博文に移った。

 明治十四(1881)年七月二十六日に北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった。十月十二日に大隈の辞任が公表された。

 野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治十五(1882)年四月には立憲改新党を結成、その党首となった。また十月二十一日に、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現、早稲田大学)を東京郊外(当時)の早稲田に開設した。明治二十年(1887年)に伯爵に叙され、十二月に正三位となる。

 明治二十九(1896)年三月一日に立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8ヶ月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅だけだった。

 明治二十九(1896)年九月十八日に第二次松方内閣が大隈の入閣を条件として発足した。大隈は外務大臣に就任した。明治三十(1897)年三月二十九日に農商務大臣を兼任した。この内閣は「松隈内閣」と呼ばれた。明治三十一(1898)年六月三十日に大隈は内閣総理大臣兼外相となり、大隈内閣が発足した。日本初の政党内閣であり、大隈と板垣退助が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれた。同年十一月八日に内閣は総辞職した。

 明治四十(1907)年一月二十日の党大会で、大隈は憲政本党の総理を辞任することを発表した。憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長に就任した。精力的に文化事業を展開した。

 大正三年(1914年)に山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣有朋が最初に推した徳川家達が辞退すると、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した。四月十日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、この日、井上馨から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している。四月十六日、七十六歳で2度目の内閣を組織した。

 大正五(1916)年六月二十四日に大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤高明と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした。しかしこれは寺内に拒否され、単独の寺内内閣を作るために運動を開始した。同年十月十九日に寺内内閣が成立した。

 大正十一(1922)年一月十日に大隈重信は八十三年の生涯を終えました。


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