大倉 喜八郎

概要

 大倉 喜八郎(おおくらきはちろう)天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十四日(1837年10月23日)生誕 – 昭和三(1928)年四月二十二日薨去(九十歳)は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十四日(1837年10月23日)に越後国蒲原郡新発田町(現、新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として誕生。幼名は鶴吉。二十三歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

 大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営み、曽祖父・宇一郎の代で薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。新発田藩での大名主で苗字を名乗れた高い身分であった。

 喜八郎は家業を手伝う傍ら、八歳で四書五経を学び、十二歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。

嘉永四年(1851年)に丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、喜八郎は江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現、日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。

 江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。喜八郎は丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政四年(1857年)に100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業する。

 慶応二年(1866年)に喜八郎は乾物店を廃業し、同年十月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応三年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業する。大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)に新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治四年(1871)年七月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

 明治四(1871)年三月に喜八郎は新橋駅建設工事の一部を請け負う。明治五(1872)年三月に銀座復興建設工事の一部を請け負う。この頃、渋沢栄一と知り合う。明治十年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。

 明治二十六年(1893年)に大倉土木組(現、大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大蔵財閥の片鱗を窺わせ始める。

 明治四十(1907)年九月に大阪大倉商業学校(現、関西大倉中学校・高等学校)を創設した。明治三十三年(1900年)に還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現、東京経済大学)を創設した。

 明治三十九年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌明治四十年(1907年)に日清豆粕製造(現、日清オイリオグループ)、日本皮革(現、ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現、帝国繊維)、東海紙料(現、特種東海製紙)を設立。

 昭和三(1928)年四月二十二日に大倉 喜八郎は九十年の生涯を終えました。

伝記・評伝

新潟県の財閥創業者・大企業家が資産を築くまでの奮闘努力苦労伝: 【大倉喜八郎】【内藤久寛】


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