松平容保

概要

 松平 容保(まつだいら かたもり)天保六年丙申(ひのえさる33)十二月二十九日(1836年2月15日)生誕-明治二十六(1893)年十二月五日薨去(五十七歳)は、江戸時代末期の会津藩主。京都守護職。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十二月二十九日(1836年2月15日)に江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として誕生。母は側室の古森氏。幼名は銈之允。

 弘化三(1846)年四月二十七日に実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第八代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。

 藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。

 万延元年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起こる。老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせた。

 松平容保は京都守護職就任を打診されたが断り続けた。政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(保科正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。文久二年閏八月一日(1862年9月24日)に京都守護職に就任する。

松平春嶽

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に徳川慶喜が明治天皇へ政権返上を奏上した。翌十五日に天皇が奏上を勅許した(大政奉還)。大政奉還を受け、慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止となる。この勅をもって守護職と京都所司代は廃止され、容保に帰国が命じられた。

徳川慶喜
明治天皇

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に、鳥羽伏見の戦いが勃発する。同年一月六日(同年1月30日)に徳川慶喜が戦線から離脱し、夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命により、これに随行することになる。同年二月四日(同年2月26日)に容保は大坂脱出の責任を取るため藩主を辞任し、家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲る。

 慶応四年二月十六日(1868年3月9日)に会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し、会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も、会津の人間のほとんどが江戸を後にした。同年二月二十二日(同年3月15日)、会津に到着する。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の2方向へ動く。

 明治元年九月二十二日(1868年11月6日)に会津藩降伏、鶴ヶ城開城。容保は妙国寺へ移される。同年十月十九日(同年12月2日)に容保、会津を発し江戸へ護送され、池田邸に永預けとなる。

 明治二年六月三日(1869年7月11日)に容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。同年十一月四日(同年12月6日)に容大に家名相続が許され、華族に列し子爵を授かり、陸奥国三万石の支配を命じられる。同年十二月七日(1870年1月8日)、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。

 明治3年五月十五日(1870年6月13日)に容大が斗南藩知事に任じられ、五戸(現、青森県)へ向かうこととなる。明治四年(1871年)に容保も斗南藩に預け替えとなり、七月から八月の約一カ月間、田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。明治五年一月(1872年2月)蟄居を許される。

 明治十三(1880)年二月に容保は日光東照宮の宮司に任じられる。三月、上野東照宮祠官を兼務する。明治二十六(1893)年十二月五日に松平容保は五十七年の生涯を終えました。

伝記・評伝

幕末会津藩 松平容保の慟哭―北方領土を守った男たちの最期

会津の義 幕末の藩主松平容保 (集英社文庫)

幕末の悲劇の会津藩主 松平容保 (新人物文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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