五代友厚

概要

 五代友厚(ごだい ともあつ)天保六年丙申(ひのえさる33)十二月二十六日(1836年2月12日)生誕-明治十八(1885)年九月二十五日逝去(四十九歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の実業家。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十二月二十六日(1836年2月12日)に薩摩藩士記録奉行である父五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下で誕生。質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、八歳になると児童院の学塾に通い、十二歳で聖堂に進学して文武両道を学ぶ。

 十四歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。見せたものは、藩主・島津斉興(しまづなりおき)がポルトガル人から入手した世界地図だった。友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。友厚は地図を2枚複写しそのうちの1枚を自分の部屋に貼った。

 安政元年(1854年)にマシュー・ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。その翌年、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。

マーシュ・ペリー

 文久二年(1862年)に友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航する。藩のために汽船購入の契約をした。文久三年七月(1867年8月)に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となる。友厚は横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入府する。しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。

松木洪庵(寺島宗則)

 慶応元年(1865年)に藩命により寺島宗則や森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴した。慶応2年(1866年)に帰国した。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のトーマス・グラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

森有礼
トーマス・グラバー

 明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大坂税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。

 明治二年(1869年)の退官後、硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治八年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(明治十四年の政変)に関わり、政商といわれた。

大久保利通
木戸孝允
板垣退助
黒田清隆

 五代友厚は明治十八(1885)年九月二十五日に逝去。四十九年の生涯を終えました。

伝記・評伝

五代友厚 (河出文庫)

新・五代友厚伝 近代日本の道筋を開いた富国の使徒

五代友厚 士魂商才 (ハルキ文庫)

五代友厚――蒼海を越えた異端児 (潮文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
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