井上馨

概要

 井上 馨(いのうえ かおる)天保六年丙申(ひのえさる33)十一月二十八日(1836年1月16日) 生誕-大正四(1915)年九月一日薨去(七十九歳)は、江戸時代末期の長州藩士、政治家、実業家。首相・桂太郎は姻戚。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十一月二十八日(1836年1月16日)に長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現、山口県湯田温泉)で誕生。嘉永四年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学する。

 安政二年十月(1855年11月)に藩主毛利敬親の江戸参勤に従い江戸に向う。井上は江戸で伊藤博文と出会う。万延元年(1860年)に桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、毛利敬親の小姓に加えられて通称の聞多の名を与えられる。同年に敬親に従い帰国する。

敬親
伊藤博文

 江戸遊学中の文久二年八月(1862年9月)に井上は藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸購入する。尊王攘夷運動に共鳴し、同年十一月(同年12月)に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞(くさか げんずい)らと共に同年十二月(1863年1月)にイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動をとる。

高杉晋作
久坂玄瑞

 文久三年(1863年)に執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願する。井上馨は伊藤博文・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航する。留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。

長州五傑 

 第一次長州征討では井上は武備恭順を主張したために元治元年(1864年)九月二十五日に俗論党に襲われ瀕死の重傷を負った。体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかった。その後、高杉晋作らと協調して同年二月に長府巧山寺で決起(巧山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。

 慶応二年一月(1866年2月)に坂本龍馬の仲介で長州藩と薩摩藩が同盟(薩長同盟)締結。第二次長州征討で芸州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。同年九月二日(1866年10月10日)に広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟休戦協定を結んだ。

坂本龍馬
広沢真臣
勝海舟

 井上は慶応三年(1867年)の王政復古後、新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督・澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任した。明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動をともにし、おもに財政に力を入れた。岩倉使節団の外遊中の留守政府では、事実上大蔵省の長官として権勢をふるう。明治六年(1873年)に江藤新平らに予算問題や尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)汚職事件を追及されて同年五月に辞職した。

江藤新平

 井上は政界から引いたあと、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤博文の強い要請のもと政界に復帰した。大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、明治十一年(1878年)七月に参議兼工部卿に就任、明治十二年(1879年)に外務卿へ転任した。明治十八年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第一次伊藤内閣が誕生すると、外務卿に代わるポストとして第五代外務大臣に就任する。

 明治三十四年(1901年)の第四次伊藤内閣の崩壊後、井上は大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するにいたった。大命拝辞したあとは後輩の桂太郎を首相に推薦、第一次桂内閣を成立させた。

 大正四年(1915)年九月一日に井上馨は七十九年の生涯を終えました。

伝記・評伝

井上馨《開明的ナショナリズム》

世外井上馨 近代数寄者の魁 (宮帯茶人ブックレット)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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