小松帯刀

小松帯刀

概要

 小松帯刀(こまつ たてわき)天保六年乙未(きのとひつじ32)十月十四日(1835年12月3日)生誕-明治三年七月二十日(1870年8月16日)逝去(三十四歳)は、江戸時代末期の薩摩藩家老。前名は肝付兼戈。通称は尚五郎(なおごろう)帯刀の前に清廉(きよかど)を名のる。維新の十傑の一人。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十月十四日(1835年12月3日)に薩摩国鹿児島城下山下町の喜入屋敷にて父、喜入領主・肝付兼善(5,500石)と母、島津久貫の娘の三男として誕生。体質的に虚弱であったことと昼夜を問わない勉学が災いして17歳を数える頃から病に伏せがちの生活を送るようになった。病弱ながらも武術の修練にも励み、演武館で示現流を学んでいる。

 安政二年(1855年)正月に二十一歳で奥小姓・近習番勤めに任じられ、同年5月に江戸詰めを命じられた。 しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ、同年十月八日(1855年11月17日)に鹿児島へ帰着した。。安政三年(1856年)、吉利領主・小松 清猷(こまつ きよもと)(2,600石)の跡目養子となって家督を継承し、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・近(千賀)と結婚した。安政五年(1858年)七月に島津斉彬が没し、島津忠義が藩主になると当番頭兼奏者番に任命され、集成館の管理や貨幣鋳造を職務とした。

島津斉彬
島津忠義

 北郷作左衛門とともに長崎出張を命じられ、文久元年一月十七日(1861年2月26日)に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した。長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学した。帰鹿した同年六月(同年7月)に島津忠義の臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われた。同年五月十八日(同年6月25日)に島津久光の側役に抜擢された。藩政改革に取り組み、配下に大久保利通がいた。文久二年(1862年)に久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力した。戦後は蒸気船機械鉄工所の設置に尽力した。御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務して藩政をリードした。禁門の変では薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも、京都の小松邸であったと伝えられる。この屋敷は近衛家別邸「御花畑」と通称された。 

島津久光
大久保利通
桂小五郎

 在京中に土佐藩脱浪士の坂本龍馬と知り合った。亀山社中(のちの海援隊)設立を援助をした。イギリスと薩摩の友好に尽力し、五大友厚らを密かにイギリスへ留学させた。英国公使ハリー・バークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。新政府においては、総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。

坂本龍馬
五大友厚
ハリー・パークス

 明治三年七月二十日(1870年8月16日)に小松帯刀は三十四年の生涯を終えました。

伝記・評伝

小松帯刀 (人物叢書)

幻の宰相 小松帯刀伝(改訂復刻版)

龍馬を超えた男小松帯刀


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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