土方歳三

土方歳三

概要

 土方 歳三(ひじかた としぞう)天保六年乙未(きのとひつじ32)五月五日(1835年5月31日)生誕-明治二年五月十一日(1869年6月20日)逝去(三十四歳)は、江戸時代末期の幕臣。新選組副長。蝦夷島政府陸軍奉行並。諱は義豊、雅号は豊玉。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)五月五日(1835年5月31日)に武州武蔵国多摩郡石田村(現、東京と日野市石田)に農家の父・の土方義諄(隼人)と恵津の間に誕生。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保十一年(1840年)に結核で亡くなっている。

 歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で試合を重ね、修行を積んだ。歳三は試衛館に指導に来ていた近藤勇と出会い、安政六年(1859年)三月二十九日に天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)に近藤は天然理心流四代目宗家に襲名した。

近藤勇

 文久三(1863)年二月に歳三は試衛館の仲間とともに、江戸幕府第十四代将軍・徳川家茂警護のための浪士組に応募し、京都へ上洛する。文久三年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められて新選組が発足した。その後、芹沢鴨が土方らによると見られる暗殺で死去し、近藤が新選組局長となった。歳三は副長の地位に就いた。

 元治元(1864)年六月五日の池田屋事件で応援に駆けつけたが、ただちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。

 慶応三(1867)年六月に幕臣に取り立てられる。しかし同年十月十四日に徳川慶喜が大政奉還により将軍職を辞した。同年十二月九日の王政復古の大号令が発せられるに至り、江戸幕府は事実上終焉した。慶応四(1868)年一月三日に鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争が勃発。歳三は負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の攻勢の前に敗北する。

徳川慶喜

 鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあと、近藤は大久保剛、歳三は内藤隼人と偽名を名乗り、新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲斐国に向かう。しかし慶応四(1868)年三月六日に甲州勝沼の戦いで大敗する。その後、下総国流山で再起を図っていたが、同年四月三日に新政府軍に包囲された近藤が大久保大和と名を偽り投降した。歳三は江戸へ向かい、近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応四(1868)年四月二十五日に近藤は板橋刑場で斬首に処せられた。

 歳三は新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津で約3か月間の療養生活を送った。全快して戦線に復帰したあとは、会津の防戦に尽力するが、歳三はは援軍を求めて庄内藩に向かうが、すでに新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ叶わなかった。

 仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本とともに奥羽列藩同盟の軍議に参加した。まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏したあとは、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らとともに、慶応四(1868)年十月十二日に仙台折浜(現、宮城県石巻市折浜)から出航し、蝦夷地に渡った。

榎本武揚

 慶応四(1868)年十月二十日に蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。箱館・五稜郭を占領後、歳三は松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、開陽丸は暴風雨に遭い座礁し沈没した。

 明治二年五月十一日(1869年6月20日)に土方歳三は新政府軍の攻撃を一本木関門で守備した。七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。歳三は乱戦の最中に腹部に銃弾を受け、落馬し絶命した。土方歳三は三十四年の生涯を終えました。

伝記・評伝

土方歳三最後の戦い 北海道199日

官賊に恭順せず 新撰組土方歳三という生き方 (角川学芸出版単行本)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
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