近藤勇

近藤勇

 近藤 勇(こんどう いさみ)天保五年甲午(きのえうま31)十月九日(1834年11月9日)生誕-慶応四年戊辰(つちのえたつ5)四月二十五日(1868年5月17日)逝去(三十三歳)は、江戸時代末期の幕臣。新選組局長。甲陽鎮撫隊隊長。通称、勇。諱は昌宜(まさよし)。慶応四年(1868年)から大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めました。

経歴

 天保五年甲午(きのえうま31)十月九日(1834年11月9日)に武蔵国多摩郡上石原村(現、東京都調布市野水)で百姓の父・宮川久次郎と母・みよ(ゑい)の三男として誕生しました。幼名は勝五郎、後に勝太と改めました。

 嘉永元年十一月十一日(1848年12月6日)に勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流(てんねんりしんりゅう)剣術道場の試衛館(しえいかん)に入門しました。

 嘉永二年十月十九日(1849年12月3日)に近藤周助(近藤周斎)の養子になり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗りました。のちに正式に近藤家と養子縁組をして、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗りました。万延元年三月二十九日(1860年4月19日)に御三卿の清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚しました。

 万延二年八月二十七日(1861年10月1日)に府中六所宮で、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うことになりました。勇は天然理心流の門人同士で独自の交流を持ち、上京後も江戸や多摩の有力門人と書簡を介して交流し、金策の要請などを行っておりました。

 文久三年(1863年に)幕府は十四代将軍・徳川家茂上洛の警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募りました。同年二月八日(同年3月26日)に近藤勇は浪士組一行と共に京都に向けて出発しました。一行は同年二月二十三日(同年4月10日)に京都に到着すると、壬生村(京都府京都市中京区)の民家や寺社に分宿しました。近藤は壬生村の郷士の八木源之丞邸や周辺の寺社に分宿しました。

徳川家茂

 一行が京都に到着した二十三日夜、清河八郎は新徳寺(京都市中京区)において浪士組上京の真の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白することであると宣言しました。これにより浪士組は清河ら江戸帰還派と近藤勇や芹沢鴨ら京都残留派に分裂し、異議を唱えた24人は京に残留しました。清河が幕府よりも朝廷を優先する思想であるのに対し、近藤は朝廷と幕府を一体化させ政局を安定させる公武合体論的な思想であったことが指摘されております。

清河八郎
芹沢鴨

 文久三年三月十日(1863年4月27日)に二条城において京都守護職を務める会津藩主の松平容保は幕府から京都の治安維持のため浪士を差配することを命じられ、近藤、芹沢ら17名の京都残留組は会津藩に嘆願書を提出し、受理され会津藩預かりとして将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」が結成されました。浪士組24名のうち試衛場出身者は近藤ら8名でした。

松平容保

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に長州藩を京都政局から排するために会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となりました。その後、働きぶりが認められ、「新撰組」の隊名を下賜されました。同年九月十六日(同年10月28日)に芹沢らを暗殺すると、近藤勇主導の新体制が構築されました。

 八月十八日の政変により京都政局は公武合体派が掌握し、一橋慶喜、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)の三者による「一会桑政権(いちかいそうせいけん)」が形成され、新選組はその一角を担いました。

一橋慶喜

 元治元年六月五日(1864年7月8日)二十二時すぎに、近藤勇隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となりました。新選組側は一時は近藤と永倉の2人となるが、土方歳三の隊が到着して、戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更しました。9名を討ち取り4名捕縛の戦果を上げました。会津、桑名藩の応援は戦闘後に到着しました。

土方歳三

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)の禁門の変の出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷しました。近藤は伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功しました。慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊が屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、戦闘が開始されました。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮されました。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍・徳川家茂が大坂城で急病により薨去されました。幕府軍は将軍の死去を公にして、朝廷に休戦の締結に成功しました。

 慶応二年九月二十六日(1866年11月3日)に伊東甲子太郎と篠原泰之進が近藤の妾宅を訪れ、近藤と時局を論じました。伊東が勤王を説き孝明天皇の衛士になることを主張したのに対し、近藤は徳川幕府の趨勢を論じ議論は平行線となり、近藤は伊東らの分離を警戒しました。

伊東甲子太郎

 慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に徳川慶喜が将軍宣下を受け15代将軍に就任しました。慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権は畿内でおこなわれました。慶喜の将軍就任から20日後の同年十二月二十五日(同年1月30日)に孝明天皇が崩御されました。慶応三年一月九日(同年2月13日)に睦仁親王が践祚して明治天皇として皇位継承をされました。

明治天皇

 慶応三年六月十日(1867年7月11日)に新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となりました。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うことができるようになりました。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が明治天皇へ政権返上をして、翌日天皇が奏上を勅許しました(大政奉還)。大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体論を樹立することにありました。

 慶応三年十一月十八日(1867年12月13日)夜に近藤は国事議論を目的に醒ケ井通木津屋橋(京都市下京区)に伊東甲子太郎を呼び、酒宴の後に七条油小路(下京区)において新選組隊士ら数名により伊東を暗殺させました。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)十八時頃から、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれました。岩倉らのペースで会議は進められ「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定しました。

岩倉具視

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まりました。鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻りました。近藤は江戸帰還後に徳川慶喜に対して甲斐国甲府の甲府城の委任を要請する建白書を提出しました。

 慶応四年二月二十八日(1868年3月21日)に近藤は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、幕府から武器弾薬を、幕府や会津藩から資金を与えられると、近藤は「大久保剛」の変名を用いて新選組は甲陽鎮撫隊と改名しました。近藤は新政府軍が甲府を制圧したことを知り、甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で新政府軍と戦うが敗れて敗走しました。

 近藤、土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現、東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、隊士は227名に増加しました。近藤は変名をさらに「大久保大和」と改めました。新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知り、慶応四年四月三日(1868年4月25日)に近藤を捕縛しました。

 慶応四年四月二十五日(1868年5月17日)に近藤勇は中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。三十三年の生涯でした。

伝記・評伝

新選組局長近藤勇―士道に殉じたその実像

近藤勇白書 (角川文庫)

劇画近藤勇―星をつかみそこねる男 (ちくま文庫)

話に聞いた近藤勇

新撰組 近藤勇 (人物文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA