稲葉正邦

稲葉正邦

概要

 稲葉 正邦(いなば まさくに)天保五年甲午(きのえうま31)五月二十六日(1834年7月2日)生誕-明治三十一(1898)年年戊戌(つちのえいぬ35)七月十五日逝去(六十四歳)は、江戸時代末期の山城淀藩主、老中、京都所司代。

経歴

 天保五年甲午(きのえうま31)五月二十六日(1834年7月2日)に陸奥国二本松藩主・丹羽長富の七男として誕生しました。嗣子のいなかった淀藩主・稲葉正誼(いなば まさよし)の養子となりました。

 稲葉家淀藩は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩であることから、正邦も当初から幕府内での昇進が早く、会津藩、桑名藩、薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任されておりました。後に老中、政事総裁として、江戸藩邸で活動しました。

 淀藩は第一次、第二次長州征討へ淀藩士派兵を決定しました。しかし、城代家老の田辺権大夫の強硬な反対によって断念しました。佐幕急進派の正邦と穏健派の田辺権大夫ら藩首脳部の対立は顕在化していきました。

 鳥羽・伏見の戦いでは、後退する旧幕府軍の入城を拒否しました。藩首脳部と新政府との密約成立により新政府に恭順したためです。このとき正邦は、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動しておりました。正邦は自らの藩が自身の決定なくして徳川家に反旗を翻すという事態に遭遇するという立場に立たされ、慶応四年二月(1868年3月)に老中職を辞任しました。

 正邦は朝廷からの上洛要請に応じる事になりました。しかし、三島宿で秘かに徳川慶喜から新政府への嘆願書を持っていたことが発覚し、小田原の紹太寺(しょうたいじ)で謹慎処分を受けました。その後、新政府の許可によって身柄は京都に送られましたが、宥免されました。淀藩はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫きました。

 稲葉正邦は版籍奉還により淀藩知事となり、廃藩置県によりその地位を退きました。維新後は平田銕胤(ひらたかねたね)に入門して神道に傾倒しました。三島神社宮司などを歴任し、明治初期の神道の発展、整備に寄与したました。明治八年(1875年)に神道事務局を設立し、管長に就任しました。事務局が神道本局に改組されると、初代管長に就任しました。

 稲葉正邦は明治三十一(1898)年七月十五日に六十四年の生涯を終えました。

著書

『大壑君御一代略記』

『祝詞正訓』

『毀誉相半書本教道統傳』


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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