川路利良

川路利良

概要

 川路利良(かわじ としよし)天保五年甲午(きのえうま31)五月十一日(1834年6月17日)生誕 -明治十二( 1879)年己卯(つちのとう16)十月十三日逝去(四十五歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の警察官、内務官僚。階級は大警視、陸軍少将。

経歴

 天保五年甲午(きのえうま31)五月十一日(1834年6月17日)に薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として薩摩国鹿児島郡児島近在比志島村(現、鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区)で誕生しました。

 利良は重野安繹(しげのやすつぐ)に漢学を学び、坂口源七兵衛に直心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)を学びました。島津斉彬のお伴として江戸に出府しました。薩摩と江戸をつなぐ飛脚(大名行列の情報を早く伝える、情報を収集する斥候的役割)として勤めました。

重野安繹
島津斉彬

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に起きた禁門の変で利良は長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価されました。慶応三年(1867年)に薩摩藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学びました。

西郷隆盛
大久保利通

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に勃発した戊辰戦争の初戦の鳥羽伏見の戦いで利良は薩摩官軍大隊長として出征しました。東北に転戦し、二本松の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると会津戦争に参加しました。戦功により明治二年(1869年)に薩摩藩の兵器奉行に昇進しました。

 川路利良は明治維新後の明治四年(1871年)に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進しました。明治五年(1872年)に邏卒総長(巡査総長)に就任し、司法省の西欧視察団の8人の一員として欧州各国の警察を視察しました。帰国後、警察制度の改革を建議し、フランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立しました。

 明治七年(1874年)に警視庁創設に伴い満四十歳で利良は初代大警視(現、警視総監)に就任しました。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったといわれます。

 明治六年政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従ったが、利良は大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身すると表明しました。内務卿となった大久保利通から厚い信任を受けました。薩摩の不平士族から川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」がとられ、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされました。

 明治十年(1877年)に勃発した西南戦争で、利良は陸軍小将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦しました。警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けました。

 明治十二(1879)年一月に欧州の警察を視察のため利良は再び渡欧しました。しかし船中で病を得て10月8日帰国しました。川路利良は病が癒えず、明治十二( 1879)年己卯(つちのとう16)十月十三日に四十五年の生涯を終えました。

伝記・評伝

大警視 川路利良漢詩集 (22世紀アート)

川路大警視 附・大警視川路利良君伝(復刻版)

大警視川路利良の魅力―『翔ぶがごとく』の司馬遼太郎から警察官へのメッセージ

大警視 川路利良―幕末・明治を駆け抜けた巨人

大警視・川路利良 日本の警察を創った男

警察手眼 (国立図書館コレクション)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
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