土方 久元

概要

 土方 久元(ひじかた ひさもと)天保四年癸巳(みずのとみ30)十月十二日(1833年11月23日)生誕-大正七(1918)年戊午(つちのえうま55)十一月四日薨去(八十四歳)は、土佐藩士、政治家。幼名は大一郎。通称、楠左衛門。号は秦山。栄典は正二位勲一等伯爵。

経歴

 天保四年癸巳(みずのとみ30)十月十二日(1833年11月23日)に土佐藩上士・土方久用(200石)の長男として誕生しました。

 安政四年(1857年)に江戸へ遊学して儒者・大橋 訥庵(おおはし とつあん)から尊王攘夷の思想を学びました。土佐に帰国後、武市瑞山(たけち ずいざん)らが結成した土佐勤王党に参加しました。

武市 瑞山(半平太)

 土方久元は文久三年(1863年)に藩命により京都に上洛しました。長州藩や諸藩の勤王の志士と交流しました。公家の三条実美の知遇を得て、徴士学習院出仕を命ぜられました。しかり同年に八月十八日の政変が起き、長州藩と三条らは失脚し京から追放されました。久元は「七卿落ち」の公家と共に長州へ下りました。

三条実美

 同じ土佐浪士の坂本龍馬や中岡慎太郎と連係し、薩長同盟の仲介に尽力しました。

坂本龍馬
中岡慎太郎

 明治維新後は新政府に仕え、東京府判事、鎮将府弁事に任命されました。その後、宮中職の履歴が多く、皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられました。

 明治十八年(1885年)の内閣制度発足に際して、第一次伊藤内閣の農商務大臣として入閣しました。明治二十(1887)年九月、宮内大臣に転じ、以後11年に渡って宮内大臣の職務にありました。

 晩年は帝室制度調査局総裁、皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事しました。聖徳講話などを行い国民の教化に尽力し、國學院大學長、東京女子館長などを務めました。また、明治天皇が崩御後、臨時帝室編修局総裁の職に就き『明治天皇紀』の編纂に尽力しました。

明治天皇

 土方久元は大正七(1918)年十一月四日薨去。八十四年の生涯を終えました。

土方久元日記 明治十四年


三国志演義 第一巻
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