寺島宗則

寺島宗則

概要

 寺島宗則(てらしまむねのり)天保三年壬辰(みずのえたつ29)五月二十三日(1832年6月21日)生誕- 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)六月六日薨去(六十歳)は、江戸時代末期の通訳兼医師。明治時代の政治家。

経歴

 天保三年壬辰(みずのえたつ29)五月二十三日(1832年6月21日)に薩摩国出水群出水郷脇本村字槝之浦(現、阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として誕生しました。(幼名、徳太郎。後に藤太郎)。

 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学びました。弘化二年(1845年)に江戸に出府して伊東玄朴と川本幸民から蘭学を学びました。安政二年(1855年)に中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)で講義しました。安政三年(1856年)に蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となりました。

伊東玄朴
島津斉彬

 松木弘安(寺島宗則)は再度江戸へ出て蕃書調所に復帰しました。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政四年(1857年)から英語を独学しはじめ、安政六年(1859年)から本格的に英語を学びました。文久元年(1861年)に英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として福沢諭吉とともに抜擢されました。

福沢諭吉

 文久二年(1862年)に幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わりました。欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転じました。翌年に帰国して鹿児島に戻りました。

 文久三年七月二日(1863年8月15日)に勃発した薩英戦争で弘安は五大友厚とともにイギリス軍の捕虜となりました。慶応元年(1865年)に薩摩藩遣英使節団(さつまはんけんえいしせつだん)に参加し欧州を再訪しました。渡欧中にはイギリス外務省との外交交渉などを行いました。

五大友厚

 明治維新後に遣欧使節での経験を生かして外交官となりました。慶応三年十一月(1867年12月)に全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出しました。明治五年(1872年)に初代の在イギリス日本公使となりました。

島津忠義

 明治六年(1873年)に寺島宗則は参議兼外務卿となりました。政府の財政難から関税時自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治十二年(1879年)に外務卿を辞職しました。その後、文部卿、元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任しました。

  明治二十六(1893)年六月六日に寺島宗則は薨去。六十年の生涯を終えました。 

伝記・評伝

寺島宗則―日本電気通信の父

寺島宗則 (人物叢書)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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