徳川茂徳

徳川茂徳

概要

 徳川茂徳(とくがわもちなが)天保二年辛卯(かのとう28)五月二日(1831年6月11日)生誕-明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)三月六日薨去(五十二歳)は、江戸時代末期の美濃国高須藩十一代藩主、尾張藩十五代藩主、一橋徳川家十代当主。高須藩時代は松平義比(まつだいら よしちか)、尾張藩時代は徳川茂徳、一橋家時代は徳川茂栄(とくがわもちはる)を名乗りました。

経歴

 天保二年辛卯(かのとう28)五月二日(1831年6月11日)に高須藩十代藩主・松平義建(まつだいら よしたつ)の五男として誕生しました。長兄の源之助、四兄の整三郎は夭折。次兄の慶恕(徳川慶勝)は尾張徳川家を継ぎ、三兄の武成は浜田松平家を継いだため、この4人の兄に代わり、嘉永二年八月十六日(1849年10月2日)に父・義建の嫡子となりました。実弟に会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬がおり、慶勝と茂徳を含めて高須四兄弟と呼称されております。

徳川慶勝
松平容保
松平定敬

 安政五年七月五日(1858年8月13日)に大老・井伊直弼の安政の大獄により、尾張藩主であった異母兄の徳川慶勝が隠居謹慎となったのに伴って尾張藩主に就任しました。茂徳(もちなが)と改名しました。

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外で井伊直弼が暗殺されました。慶勝の謹慎が解けると藩内の流れが変わりました。そのため、文久三年九月十三日(1863年10月25日)に隠居しました。養嗣子の徳成改め義宜(慶勝の三男)に藩主を譲りました。隠居後は玄同(げんどう)と号しました。

 徳川茂徳は慶応二年十二月二十七日(1867年2月1日)に実兄の慶勝や、実弟の松平容保の斡旋により、一橋家から徳川宗家を継いだ徳川慶喜に代わって一橋家当主を継承し、茂栄(もちはる)に改名しました。

徳川慶喜

 明治維新に際しては、徳川一族の総代的な役割を担い、明治新政府との交渉にあたりました。慶応四年閏四月二十九日(1868年6月19日)に徳川宗家の扱いの早急な処理を願い、徳川家達による徳川宗家相続が許されました。

徳川家達

 徳川茂栄は明治十七(1884)年)三月六日に薨去。五十二年の生涯を終えました。


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