仁礼景範

仁礼景範

概要

 仁礼景範(にれかげのり)天保二年辛卯(かのとう28)二月二十四日(1831年4月6日)生誕 -明治三十三(1900)年庚子(かのえね37)十一月二十二日薨去(六十九歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士、明治時代の海軍軍人。通称、源之丞、平助。

経歴

 天保二年辛卯(かのとう28)二月二十四日(1831年4月6日)に薩摩藩士・仁礼源之進の次男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現、鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)で誕生しました。

 仁礼は西郷吉之介(隆盛)、大久保正助(利通)、有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(敦)、吉井仁左衛門(友実)、伊地知竜右衛門(正治)らが結成した「精忠組」に参加して、「尊王攘夷」の思想を学びました。

 文久三年五月二十日(1863年7月5日)に朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)で公家の姉小路公知(あねがこうじ きんとも)が暗殺された事件で、容疑者とされた田中新兵衛の家に一緒にいた仁礼景範は、下僕の太郎ともども逮捕されました。後に容疑が晴れて、無罪放免となりました。

姉小路公知

 文久三年七月二日(1863年8月15日)に薩英戦争が勃発し、仁礼はこの戦争で攘夷派77人の決死隊の一人として英艦乗っ取り作戦に参加しましたが、失敗しました。

 慶応二年三月二十八日(1886年5月12日)に仁礼は藩命により長崎からアメリカへ密航出国し同年九月二十七日(同年11月4日)にニューヨークに到着。ニューヨークに滞在後、マサチューセッツ州モンソンのモンソンアカデミーに留学しました。出航前から、慶応四年十月四日(1868年11月17日)までの詳細は、「仁礼景範渡米日記」に記されております。

 明治維新後、明治五年(1872年)に海軍に出仕しました。海軍兵学校校長、東海鎮守府長官、中艦隊司令官、軍事部長などを歴任。明治十八年(1885年)に海軍中将。明治十九年(1886年)に参謀本部次長、海軍参謀本部長、横須賀鎮府長官、海軍大学校長などを歴任しました。

 明治二十五年(1892年)に第二次伊藤内閣の海軍大臣に就任しました。明治二十六年(1893年)に軍令部が設置され軍令部長(のちの軍令部総長)に就任しました。

 明治三十三(1900)年十一月二十二日に仁礼景範は薨去。六十九年の生涯を終えました。

参考文献

密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士 (NHKブックス)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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