三島中洲

三島 中洲

三島中洲(みしまちゅうしゅう)文政十三年辛卯(かのとう28)十二月九日(1831年1月22日)生誕 – 大正八(1919)年己未(つちのとひつじ56)五月十二日薨去(八十八歳)は、江戸時代末期から大正時代の漢学者、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舎大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者です。重野 安繹(しげの やすつぐ)、川田 甕江(かわた/かわだ おうこう)とともに明治の三大文宗の一人に数えられます。

経歴

 文政十三年辛卯(かのとう28)十二月九日(1831年1月22日)に備中国窪屋郡中島村(現、岡山県倉敷市中島)に父・三島正昱(寿太郎)と母・柳の次男として誕生しました。本名は毅。字は遠叔。通称、貞一郎。

 天保八年二月(1837年3月)に三島中洲が八歳のとき父の寿太郎が江戸で逝去されました。この頃、寺子屋で習字を習い、十一、二歳の頃、丸川達龍を師として四書五経の素読を習いました。

 天保十四年八月(1843年9月)に三島中洲は備中松山藩の儒者・山田方谷の私塾、牛麓舎に入り、十九歳のとき塾長となりました。藩務多忙の方谷にかわり舎生の訓育に当たりました。この頃貞一郎と称しました。

山田方谷

 嘉永五年三月(1852年4月)、中洲が23歳のとき伊勢津幡の斎藤拙堂に師事しました。嘉永六年(1853年)に『探辺日録』を作りました。在津中、玉乃世履(たまのよふみ)や鶴田皓(つるたあきら)と知り合いました。安政三年三月(1856年4月)に伊勢を去り、安政四年(1857年)に中洲は備中松山藩藩士となりました。

 安政五年四月(1858年5月)、中洲が二十八歳のとき藩主の許しを得て江戸に出府して昌平坂学問所に入り、佐藤一斎や安積艮斎(あさかごんさい)から学びました。安政五年六月(1858年7月)帰郷し、藩主に召されて松山藩に赴き、藩校有終館会頭に就任しました。

昌平坂学問所
佐藤一斎
安積艮斎

 万延元年(1860年)、中洲が三十一歳のとき再び江戸に出府し、昌平黌詩文掛となりました。文久元年四月(1861年5月)、三十二歳のとき有終館学頭・吟味役となり、有終館学制改革を行いました。同年六月(同年7月)に松山城の登山口に当る小高下に200坪の宅地を賜り、虎口渓舎と名付け念願の漢学塾を開きました。学徒は十二藩に及び塾舎常に60人から70人を越したと伝えられます。

 三島中洲は明治新政府出仕の命による東京上京まで11年間にわたって師弟の教育にあたりました。慶応三年九月(1867年10月)、中洲が三十八歳のとき奉行格となり洋学総裁兼務となりました。

 三島中洲は明治十(1877)年九月に中村正直(なかむらまさなお)、重野安繹(しげの やすつぐ)、川田甕江(かわた/かわだ おうこう)、鷲津毅堂(わしづ きどう)、阪谷朗廬(さかたにろうろ)、らと邸内に経国文社を興しました。同年十月十日、四十八歳のとき、東京府麹町区一番町43番地に漢学塾二松學舍を創立しました。翌月には二松學舍分校となる柳塾を湯島天神町三丁目3番地内の西郷盛之邸内に設けました。明治十一(1878)年一月に東京師範学校漢学教授となりました。

中村正直
重野安繹
川田甕江

 明治二十五(1892)年九月に國學院教授となりました。明治三十二(1899)年三月に文学博士の学位を受けました。

 三島中洲は大正八(1919)年五月十二日に流行性感冒(スペインかぜ)に罹患して薨去。八十八年の生涯を終えました。

伝記・評伝

最後の儒者

三島中洲 (シリーズ陽明学 34)

三島中洲の学芸とその生涯

山田方谷・三島中洲 (叢書・日本の思想家)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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