大久保利通

大久保利通

概要

 大久保利通(おおくぼとしみち)文政十三年庚寅(かのえとら27)八月十日(1830年8月10日)生誕 – 明治十一(1878)年五月十四日薨去(四十七歳)は、薩摩藩士、政治家。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」。「維新の十傑」の一人。

経歴

 文政十三年庚寅(かのえとら27)八月十日(1830年8月10日)に薩摩国鹿児島城下高麗町(現、鹿児島県鹿児島市高麗町)で琉球館附役の薩摩藩士の父・大久保利世と皆吉鳳徳の二女の母・福の長男として誕生する。幼名は正袈裟(しょうけさ)。

児島城

 藩校造士館(ぞうしかん)で西郷隆盛、税所篤(さいしょ あつし)、吉井友実(よしい ともざね)、海江田信義(かいえだ のぶよし)らと共に学問を学び親友、同志となる。

西郷隆盛
税所 篤
吉井 友実
海江田 信義

 弘化三年(1846年)に藩の記録所書役助として出仕する。嘉永三年(1850年)にお由羅騒動(おゆらそうどう)が起き、父利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。

 島津斉彬と親しい幕府老中首座・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前藩主・松平春嶽らがお家騒動の事態収拾に努める。嘉永四年二月二日(1851年3月4日)に斉彬は十一代藩主となる。

                     阿部正弘
                     伊達宗城
松平春嶽
島津斉彬

 島津斉彬が藩主となり謹慎を解かれ、嘉永六年五月(1853年6月)に記録所に復職して御蔵役となる。安政四年十月十日(1857年11月17日)に西郷とともに徒目付となる。西郷隆盛らと精忠組を結成する。

 安政五年七月十六日(1858年8月24日)に藩主の島津斉彬が逝去する。安政六年十一月(1859年12月)に同志40余人と脱藩を企画した。しかし、新藩主・島津茂久が、脱藩を止めた。文久元年十二月十五日(1862年1月14日)に藩主の父・島津久光から一蔵(いちぞう)の名を賜る。

島津茂久
島津久光

 文久二年一月(1862年2月)に島津久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平春嶽の政事総裁職就任などを進めた。同年四月十六(同年5月14日)に久光は1000人を超える兵とともに上洛する。

一橋慶喜
松平春嶽

 文久三年二月十日(1863年3月28日)に大久保利通は御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に起こった生麦事件の解決と補償を迫り、文久三年七月二日(1863年8月15日)にイギリス艦隊は薩摩藩兵と鹿児島湾で激突する。この戦闘を通じて薩摩藩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、以後両者が一転して接近していく契機となる。慶応元年(1865年)に利通と改諱する。

 慶応二年一月二十一日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸で坂本龍馬を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が6か条の同盟を締結する(薩長同盟)。

小松帯刀
桂小五郎(木戸孝允)

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊が屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍・徳川家茂が大坂城で急病により薨去する。幕府軍は将軍の死去を公にして朝廷に休戦の締結に成功する。

徳川家茂

 慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に徳川慶喜が将軍宣下を受け十五代将軍に就任する。慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権は畿内でおこなわれた。慶喜の将軍就任から20日後の同年十二月二十五日(同年1月30日)に孝明天皇が崩御される。慶応三年一月九日(同年2月13日)に睦仁親王が践祚して明治天皇が皇位継承する。

孝明天皇
明治天皇

 慶応三年(1867年)に雄藩会議として「四侯会議」が開催された。しかし四侯会議は徳川慶喜の発言によって頓挫する。薩摩藩は公武合体路線を改めて、武力倒幕路線を指向することとなる。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が明治天皇へ政権返上翌日天皇が奏上を勅許する(大政奉還)。大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体論を樹立することにあった。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)18時頃から、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内容堂ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難して慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。岩倉らのペースで会議は進められ「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定した。王政復古の後、大久保利通は参与に任命される。

岩倉具視

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突して鳥羽伏見の戦いが始まる。西郷隆盛と勝海舟の会談後、「江戸城明け渡し」が実行される。同年五月十五日(同年7月4日)上野戦争が始まり、旧幕府軍は敗退する。明治二年五月十八日(1869年6月27日)に箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。

勝海舟

 明治二年七月十二日(1869年8月29日)に大久保利通は参議に就任する。版籍奉還や廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行なう。明治四年(1871年)に大蔵卿に就任する。

 明治四年十一月十二日(1871年12月23日)から明治六(1873)年五月二十九日まで、大久保は岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立して明治六年政変で大久保は西郷らを失脚させた。

 明治六年(1873年)に大久保は内務省を設置して自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進する。

 明治七(1874)年二月に佐賀の乱が勃発すると、ただちに大久保自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧する。首謀者の江藤新平ら13人を、個人または特定集団により執行される私的な制裁として処刑する。台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として清に行き交渉する。清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。明治十年(1877年)に勃発した西南戦争では京都で政府軍を指揮した。

江藤新平

 明治十一(1878)年五月十四日に大久保利通は馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)で暗殺される(紀尾井町事件)。大久保利通は四十七年の生涯を終えた。

伝記・評伝

大久保利通 (講談社学術文庫)

大久保利通 維新前夜の群像5 (中公新書)

日本史上最高の英雄 大久保利通

大久保利通と明治維新 (歴史文化ライブラリー)

大政事家 大久保利通 近代日本の設計者 (角川ソフィア文庫)


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