本木昌造

本木昌造

概要

 本木昌造(もとぎしょうぞう)文政七年甲申(きのえさる21)六月九日(1824年7月5日)生誕 -明治八(1875)年乙亥(きのとい12)九月三日逝去(五十一歳)は、江戸時代末期の通詞(通訳)、教育者。日本の活版印刷の先駆者。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三。

経歴

 文政七年甲申(きのえさる21)六月九日(1824年7月5日)に本木昌造は長崎で誕生する。天保五年(1834年)に本木昌左衛門のもとへ養子に出された。本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系で、本木正栄は、英和や仏和の辞典を作った。

 嘉永六年七月十八日(1853年8月22日)にロシアの使節エフィム・プチャーチンが長崎へ来航した。嘉永六年十二月五日(1854年1月3日)に再び長崎へ来航し幕府全権の川路聖謨(かわじとしあきら)、筒井 政憲(つつい まさのり)と計6回に渡り会談したさい、昌造は条約交渉の通詞を担当した。

川路 聖謨

 明治維新後に昌造は長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立する。グイド・フルベッキから美華書館(びかしょかん)のウィリアム・ギャンブルを紹介され、活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受ける。

グイド・フルベッキ

 明治二年(1870年)に活版伝習所を辞し、昌造は武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する。弟子の平野富二に活版製造所の経営を任せ、陽其二(ようそのじ)を横浜に送り、横浜毎日新聞を創刊させる。長崎新聞を創刊する。

 明治五年八月二日(1872年9月4日)に学制が施行され、県からの圧力で1874(明治7)年ごろに新街新塾を閉鎖させられる。昌造は明治八年(1875年)から病床につく回数が増え、夏に京都へ旅に出た後病状は悪化した。明治八(1875)年九月三日に本木昌造は逝去。五十一年の生涯を終えた。

伝記・評伝

本木昌造伝

逃げる男: 活版印刷の祖・本木昌造 (22世紀アート)

日本の近代活字―本木昌造とその周辺

活字よ、―本木昌造の生涯


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
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三国志演義 第八巻
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