小笠原長行

小笠原長行

概要

小笠原長行(おがさわらながみち)文政五年壬午(みずのえうま19)五月十一日(1822年5月11日)生誕-明治二十四(1891)年一月二十五日逝去(六十八歳)は、江戸時代の肥前国唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。江戸幕府老中。外国事務総裁。

経歴

 文政五年壬午(みずのえうま19)五月十一日(1822年5月11日)に小笠原長行は唐津城二の丸で肥前国唐津藩初代藩主の父・小笠原長昌の長男として誕生する。幼名は行若(後に敬七郎)。

唐津城

 文政六年九月二十九日(1822年11月1日)に父・小笠原長昌が逝去する。後継の藩主に四代続けて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われる。

 長行は幼少から明敏であったので、天保九年(1838年)に江戸に出府して佐藤一斎と並ぶ名声の朝川善庵(あさかわぜんあん)に師事した。安政四年(1857年)に小笠原長国の養嗣子となり、藩政にも携わって名声を高める。

 文久二年(1862年)に世嗣の身分ので奏者番(そうじゃばん)から若年寄、同年九月十一日(同年11月2日)に老中格となり老中へと出世した。

 文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に発生した生麦事件で事態を早急に終結させるため、文久三年五月九日(1863年6月24日)に賠償金10万ポンドをイギリスに支払う。

 文久三年六月(1863年7月)に長行は京都で人質同然となっていた十四代将軍徳川家茂の奪還のため、幕府陸軍1500人を率いて大坂に向う。水野忠徳は攘夷派を軍事力でもって粉砕することを主張した。しかし在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよび、長行は上京計画を断念した。同年六月十日(同年7月25日)に長行は老中職を罷免される。

徳川家茂
水野忠徳

 慶応元年九月四日(1865年10月23日)に長行は再び老中格、さらに老中に再任される。慶応二年六月七日(1866年7月18日)に周防大島で第二次長州征討の戦闘が始まる。

 幕府側の敗色は濃厚となる中、慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に将軍徳川家茂が薨去された。家茂の薨去を機に長行は事態を収拾する事なく戦線を離脱した。敗戦責任を問われた長行は老中を罷免される。しかし徳川慶喜の強い意向により老中を再任された。

徳川慶喜

 将軍家茂の後継問題に当たり、長行は板倉勝静と共に慶喜を次期将軍に推す。慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に慶喜が十五代将軍に就任する。長行は慶喜政権において、外交担当老中として欧米公使との折衝を担当する。

板倉勝静

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許した。新政府と旧幕府との緊張が高まる中、江戸にいた長行は非戦を主張する。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。唐津藩も新政府軍の討伐対象となったが、藩主小笠原長国は世嗣の長行との養子関係を義絶して新政府に降伏する。

 大坂から逃げ帰り恭順の意を決していた将軍慶喜に対し、長行は徹底抗戦を主張するが遠ざけられ、慶応四年二月十日(1868年3月3日)に老中を辞任する。

 上野戦争で幕府勢力は敗北し、新政府軍が会津へ迫ると長行は棚倉から会津へ入り、新政府軍に抗戦した。奥羽越列藩同盟が結成されると板倉勝静と共に参謀とる。会津藩が破れると仙台から榎本武揚の軍艦開陽丸に乗船し箱館に向う。榎本の箱館政権には参画しなかった。

榎本武揚

 明治五(1872)年四月東京に戻り、七月に新政府に自首する。小笠原長国らの赦免運動もあって同年八月四日に赦される。その後、東京駒込動坂の小邸に隠棲した。明治二十四(1891)年一月二十五日に小笠原長行は逝去。六十八年の生涯を終えた。

伝記・評伝

開国の騎手 小笠原長行

流離の譜


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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