松前崇広

松前崇広

概要

 松前崇広(まつまえたかひろ)文政十二年己丑(つちのとうし26)十一月十五日(1829年12月10日)生誕-慶応二年丙寅(ひのえとら3)四月二十五日(1866年6月9日)逝去(三十六歳)は江戸時代末期の蝦夷地松前藩十二代藩主。老中。正字は崇廣。

経歴

 文政十二年己丑(つちのとうし26)十一月十五日(1829年12月10日)に松前藩九代藩主・松前章広の六男として西蝦夷地福山城で誕生しました。

 崇広は幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通でありました。

 崇広の甥で十一代藩主・松前昌広が病床にありました。昌広の嫡男・徳広は幼少でありました。嘉永二年六月九日(1849年7月28日)に昌広が隠居しました。崇広は昌広の養子として家督を相続し、十二代藩主となりました。

 崇広は家督相続の挨拶のために嘉永二年七月(1849年8月)に江戸へ出府しました。十二代将軍・徳川家慶に御目見しました。伊豆守に叙位・任官され、北方警備強化のため、新たに城を築城するよう命じられました。城は嘉永六年(1853年)に完成し、松前城と呼ばれました。

徳川家慶

 幕府は安政二年二月二十三日(1855年4月9日)に松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄としました。松前藩は蝦夷地での交易権を喪失しました。このため藩財政は窮乏しました。

 幕府は西洋通の崇広を文久三年四月二十三日(1863年6月9日)に寺社奉行に起用しました。元治元年七月七日(1864年8月8日)に老中格兼陸海軍総奉行に就任しました。同年十一月十日(同年12月8日)に老中に昇任しました。

 慶応元年(1865年)に崇広は陸軍兼海軍総裁となりました。幕府はイギリス、アメリカ、フランス、オランドの4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結しました。しかし朝廷から勅許(ちょっきょ)が得られず、条約内容が履行されない事態でした。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出して兵庫開港を要求しました。

 この事態を受けて、老中の崇広と阿部正外は独断で兵庫開港を決定しました。このため朝廷は崇広と正外とに対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下しました。将軍・徳川家茂はやむなく崇広と正外の両老中を免職し、国許謹慎を命じました。

徳川家茂

 松前に帰藩した崇広は病気になり、-慶応二年四月二十五日(1866年6月9日)に三十六年の生涯を終えました。


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