武市半平太(瑞山)

                    武市 半平太

概要

 武市半平太(たけちはんぺいた)文政十二年己丑(つちのとうし26)九月二十七日(1829年10月24日)生誕 -慶応元年閏五月十一日(1865年7月3日)逝去(三十五歳)は江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称、半平太。武市瑞山(たけちずいざん)と呼称されることも多い。幼名、鹿衛。諱、小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名、柳川左門。後に柳川左門と変名した際は号を吹山とした。

経歴

 文政十二年己丑(つちのとうし26)九月二十七日(1829年10月24日)に武市半平太は土佐国吹井村(現、高知県高知市仁井田)で白札郷士の父の子として誕生する。

 天保十二年(1841年)に一刀流の千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。嘉永二年(1849年)に父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために半平太は同年十二月に郷士・島村源次郎の長女・富子と結婚した。

 嘉永三年(1850年)に高知城下に転居して小野派一刀流中西派の麻田直養(あさだおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永五年(1852年)に中伝を受ける。嘉永七年(1854年)に新町に道場を開き、安政元(1854)年に麻田より皆伝を伝授された。

 安政元年(1854年)に土佐を襲った地震のために家屋を失う。安政二年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村雅事(しまむらまさこと)との協同経営で道場を開く。声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まる。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。

中岡慎太郎
岡田以蔵

 安政三年(1856年)に土佐藩の臨時御用として江戸で剣術修行が許され、岡田以蔵らを伴って江戸へ出て鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)士学館に入門する。半平太の人物を見込んだ桃井春蔵は皆伝を授け、塾頭とした。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(おけまちちばどうじょう)(北辰一刀流)で剣術修行を行っていた。

坂本龍馬

 安政五年(1858年)に帰藩して二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる。安政六年(1859年)に土佐藩主・山内豊信(容堂)が大老・井伊直弼によって隠居、謹慎を命じられた。安政七年三月三日(1860年3月24日)に井伊が暗殺される(桜田門外の変)。土佐藩士達に尊王攘夷の機運が高まる。

山内豊信(容堂)
井伊直弼

 文久元年(1861年)に半平太は剣術修行の名目で江戸に入府する。長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服して久坂の師である吉田松陰の思想に共鳴した。

木戸孝允(桂小五郎)
久坂玄瑞
高杉晋作
吉田松陰

 土佐に帰藩した半平太は土佐勤王党の同志を募り、坂本龍馬らを加盟者として192人が加盟する。加盟者の大半は下級武士や庄屋で、上士は2人しか加盟しなかった。

 この頃の土佐藩は山内容堂の信任厚い参政・吉田東洋らが藩政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。藩論は東洋の唱える開国・公武合体であった。初代・山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風があった。

吉田東洋

 半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝や家老らと気脈を通じるようになる。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説いたが、山内民部の言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した。

 文久二年四月八日(1862年5月6日)の夜に吉田東洋を半平太の指令を受けた土佐勤王党の3名が襲撃して殺害した。刺客達は逃亡脱藩した。東洋派は容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示して一触即発の事態となる。

 山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握る。東洋派は藩庁から一掃され、吉田家は知行召し上げとなる。

 吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は文久二年六月二十八日(1862年7月24日)となった。人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊となる。半平太をはじめとして土佐勤王党の同志数十人も加わった。

 参勤交代の一行は麻疹の集団感染が発生して、藩主・豊範も罹患したため大坂で約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。

 土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎(こみなみごろう)が江戸へ下って前藩主の山内容堂に藩主の入洛を説き、容堂は朝命を拝受せよと決断する。文久二年八月二十五日(1862年9月18日)に容堂は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受ける。

 文久三年三月(1863年4月)に半平太は京都留守居加役となる。白札郷士から上士格への昇進は、それまで土佐藩において前例の無いことであった。同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた。

 文久三年一月二十五日(1863年3月14日)に上洛した容堂は、青蓮院宮から平井収二郎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。

 容堂は文久三年三月(1863年4月)に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じた。土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎らを解任する。この頃の半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していた。

 帰国した半平太は平井収二郎ら三名の助命を容堂に嘆願したが、三人は死罪により切腹する。半平太は望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰せず、意見を容れることはなかった。

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)の政変(八月十八日の政変)で長州藩が朝廷で失脚した。勤王派は急速に衰退して公武合体派が主導権を握る。

 尊攘派の情勢が急激に悪化する中、文久三年九月二十一日(1863年11月2日)に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下の土佐藩の政庁に投獄された。

 吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。岡田以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。

 半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。業を煮やした容堂の「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹を命じられる。

 慶応元年閏五月十一日(1865年7月3日)に武市半平太は切腹により逝去。三十五年の生涯を終えた。

伝記・評伝

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