徳川慶頼

徳川慶頼

概要

 徳川慶頼(とくがわよしより)文政十一年戊子(つちのえね25)十月十三日(1828年11月19日)生誕-明治九(1876)年九月二十一日薨去(四十七歳)は、江戸時代末期の田安徳川家五代当主。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)十月十三日(1828年11月19日)に徳川慶頼は田安家三代・徳川斉匡(とくがわなりまさ)の九男として誕生しました。異母兄の松平春嶽とはわずか1月余の差だった。

松平春嶽(慶永)

 父の斉匡は文化十年(1813年)に実兄の十一代将軍・徳川家斉の十一男・徳川斉荘(とくがわなりたか)を養子に迎えており、天保七年八月(1836年9月)に隠居して斉荘に家督を譲る。天保十年三月二十六日(1839年5月9日)に斉荘が幕命により尾張徳川家の家督を相続したため慶頼が田安家を相続する。

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老職拝命を伝えられ大老に就任する。将軍継嗣問題では慶頼は南紀派として直弼と提携していた。安政五年十月二十五日(1858年11月30日)に十四代征夷大将軍に徳川家茂が就任する。家茂が十二歳のため慶頼は将軍後見職に就任した。しかし実権は直弼が握っていた。

井伊直弼
徳川家茂

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外で大老伊直弼が暗殺される。万延元年九月四日(1860年10月17日)に安政の大獄により謹慎処分をうけていた一橋慶喜が幕府により謹慎を解除される。

一橋慶喜

 文久二年五月九日(1862年6月6日)に慶頼は将軍後見職を解任される。文久二年四月十六日(1862年5月14日)に薩摩の島津久光が公武合体運動推進のため兵を率いて上洛したのが解任の理由としてあげられる。朝廷に対する久光の働きかけにより同年五月九日(同年6月6日)に幕政改革を要求するため久光は勅使と江戸へ随従することを命じられる。久光は同年六月七日(同年7月3日)に江戸へ到着する。久光は同年七月六日(同年8月1日)に一橋慶喜の将軍後見職、同年七月九日(同年8月4日)松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させた。

島津久光

 慶頼は文久三年一月十八日(1863年3月7日)に従二位権中納言に降格される処分を受けて同日隠居して長男の寿千代へ家督を譲る。元治二年二月四日(1865年3月1日)に寿千代は六歳で夭折して家督は慶頼の三男の亀之助(徳川家達)が継承する。

亀之助(徳川家達)

 慶応四年二月(1868年3月)に徳川慶喜は寛永寺に謹慎した。慶頼は慶喜に代わって徳川家をまとめ、静寛院宮(和宮)と協力して朝廷との折衝に当たる。同年四月十一日(同年5月3日)に江戸城は新政府軍に明け渡された。慶頼は江戸鎮撫取締に任じて新政府に協力した。

静寛院宮(和宮)

 明治新政府は亀之助に徳川宗家の家督相続を許可して慶頼は田安家当主を再度つとめることになる。慶応四年五月二十四日(1868年7月13日)に一橋家当主・一橋茂栄(徳川茂徳)らとともに立藩する(田安藩)。

一橋茂栄(徳川茂徳)

 明治三年一月九日(1870年2月9日)に北海道十勝国が田安徳川家の領地となり、明治四年八月二十日(1871年10月4日)に廃藩置県により再び開拓使の管轄となるまで田安徳川家が開拓に当たる。

 明治九(1876)年九月二十一に徳川慶頼は薨去。四十七年の生涯を終えた。


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