副島種臣

                     副島種臣

概要

 副島種臣(そえじまたねおみ)文政十一年戊子(つちのえね25)九月九日(1828年10月17日) 生誕-明治三十八(1905)年一月三十一日薨去(七十六歳)は、江戸時代末期の佐賀藩士。明治時代の政治家、外交官、書家、漢詩人。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)九月九日(1828年10月17日)に副島種臣は佐賀城南堀で藩校・弘道館の教諭を務める父・枝吉忠左衛門種彰(南濠)と佐賀藩士・木原宣審の娘の母・喜勢の次男として誕生する。兄は弘道館国学教授の枝吉神陽。

枝吉神陽

 三歳のときに、佐賀藩士・副島利忠の養子となり副島姓となる。幼名の龍種は四書及び百家で指す帝王の子孫を意味する。枝吉家は代々槍術師範として佐賀藩に仕えて足軽組頭の身分だった。

 6歳で弘道館外生寮の執法(教諭助手)となる。十四歳で元服して副島二郎龍種と名乗る。嘉永五年(1852年)に皇学研究の為に京都に留学した。嘉永六年(1853年)に黒船来航を京都で知る。

 安政二年(1855年)に藩命により再び京都に留学する。京都では兄・神陽と共に佐賀藩の政治工作に奔走した。将軍宣下廃止を進言する意見書を久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)に提出する。佐賀藩兵を50名から100名京都へ上洛させるとの朝廷の意向を藩主の鍋島直正に建言する。直正から退けられ謹慎処分となる。安政六年(1859年)に養父の佐賀藩士・副島利忠の娘の律子と結婚する。二郎龍種は謹慎を解かれた。そして弘道館教諭を命ぜられる。

久邇宮朝彦親王
鍋島直正

 文久二年八月十四日(1862年9月8日)に兄・枝吉神陽の妻がコレラに罹患する。神陽が看病するうちに自身も罹患し逝去する。副島は佐賀藩校・弘道館で佐野常民や大隈重信らを教える。

佐野常民
大隈重信

 安政六年七月一日(1859年7月30日)に長崎が開港場となる。アメリカオランダ改革派教会のグイド・フルベッキが長崎の幕府洋学所・済美館で英語を教え始める。鍋島藩が新しく長崎に藩校「蕃学稽古所」を開校するに当たり、フルベッキに英語、政治、経済などについて講義を依頼した。副島は和漢学を教える傍ら、フルベッキに英語を学ぶ。

グイド・フルベッキ

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられ、副島は慶応四年三月十三日(1868年4月5日)に明治新政府から参与の任命を受ける。太政官の職制発足と共に参与兼制度事務局の判事となる。

 明治四年十一月四日(1871年12月15日)に岩倉具視を特命全権大使とする使節団をアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣にするにあたり副島は第三代外務卿に就任する。

岩倉具視

 明治六(1873)年九月十三日に岩倉使節団が帰国する。同年十月二十三日の征韓論争の閣議において西郷隆盛の遣使中止が岩倉具視によって決定される。副島は西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平と共に翌日の二十四日に下野する。

西郷隆盛
板垣退助
後藤象二郎
江藤新平

 明治八(1875)年十月に外務省事務総裁を仰せ付けられる。明治九(1876)年九月二十日に従者一人を連れ「東京丸」で横浜を出帆して長崎を経て上海に渡る。満州や漢口を旅して明治十一(1878年)に帰国した。

 明治十二(1879)年四月二十一日に宮内省御用掛一等侍講兼侍講局総裁を拝命する。毎火曜日に明治天皇に大学、中庸、尚書、論語を進講する。以後、明治十九(1886年)の侍講職廃止まで明治天皇への進講を続けた。

明治天皇

 明治三十八(1905)年一月三十一日に副島種臣は薨去。七十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

副島種臣 (人物叢書)

副島種臣―1828ー1905 (佐賀偉人伝 12)

副島種臣と明治国家

副島種臣伯 (みすずリプリント)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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