松平春嶽(慶永)

松平春嶽

概要

 松平春嶽(まつだいらしゅんがく)文政十一年戊子(つちのえね25)九月二日(1828年10月10日)生誕-明治二十三(1890)年六月二日薨去(六十一歳)は、江戸時代末期の越前国福井藩十六代藩主。幕末の四賢侯の一人。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)九月二日(1828年10月10日)に松平春嶽は江戸城内の田安屋敷で田安徳川家三代当主の父・徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男として誕生する。幼名は錦之丞。1カ月余りの後に、異母弟の田安徳川家五代当主・徳川慶頼が誕生する。

徳川慶頼

 天保九年七月二十七日(1838年9月15日)に越前福井藩十五代藩主・松平斉善が十七歳で突然逝去される。跡継ぎがいないことから、同年九月四日(同年10月21日)付で急遽、松平錦之丞が養子とされる。同年十月二十日(同年12月6日)に正式に越前松平家の家督を継承する。わずか十一歳で十六代福井藩主となる。同年12月11日(1839年1月25日)に元服する。十一代将軍・徳川家慶の偏諱を授かって慶永と名乗る。

徳川家慶

 天保十年(1839年)に全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出して財政基盤を盤石にすることに努めた。慶永の教育係の中根雪江や由利公正、橋本左内ら改革派の補佐を受け軍制改革などの藩政改革を行う。

中根 雪江
由利公正
橋本左内

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にマーシュ・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ第13代大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航する。同年七月十八日(同年8月22日)にペリーに遅れること1ヵ月半後にロシアのエフィム・プチャーチンが率いる旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊が長崎に来航して通商を求めた。

マーシュ・ペリー
エフィム・プチャーチン

 慶永は水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張する。阿部正弘は嘉永七年三月三日(1854年3月31日)に日米和親条約を締結した。

徳川斉昭
島津斉彬
阿部正弘

 阿部は安政二年十月九日(1855年11月18日)に開国派の堀田正睦(ほったまさよし)に老中首座を譲り、攘夷派と開国派の融和をはかり幕府の分裂を回避した。安政四年六月十七日(1857年8月6日)に阿部が急病で逝去する。

堀田正睦

 十三代将軍・徳川家定の病気が悪化した安政四年(1857年)頃から後継者争いが激化する。井伊直弼は血統を重視する立場から紀州藩主の徳川慶福を推挙した。慶永は徳川斉昭と一橋慶喜を推す一橋派を形成して南紀派の井伊と対立を深める。

井伊直弼
一橋慶喜
徳川慶福

 井伊直弼が大老となり、将軍世子は慶福に決定する。権力を掌握した井伊ら南紀派は一橋派を弾圧した。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると慶永は徳川斉昭らとともに不時登城して抗議した。安政五年七月五日(1858年8月13日)に慶永は不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられる。これ以降、慶永は春嶽の号を多用するようになる。慶永の腹心、橋本左内は投獄され処刑された。

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に大老・井伊直弼は桜田門外で暗殺される。春嶽は文久二年(1862年)に謹慎をとかれ幕政への参加を許される。

 文久二年七月九日(1862年8月4日)に春嶽は新設の政事総裁職に就任する。一橋慶喜は将軍後見職に松平容保は京都守護職就任した。春嶽は朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論を推進する(公武合体論)。春嶽は横井小楠を政治顧問に迎えて藩政改革や幕政改革にあたって小楠の意見を重視した。

松平容保
横井小楠

 

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に「八月十八日の政変」により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐される。文久四年二月十六日1864年3月23日)に久邇宮朝彦親王が一橋慶喜、松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城らの参預諸侯を自邸に招き酒席をもうる。この酒席が発端となり、「参預会議」は崩壊した。

久邇宮朝彦親王
島津久光
山内容堂
伊達宗城

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊による屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、第二次長州征討の戦闘が開始された。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍・徳川家茂が大坂城で急病により薨去される。幕府軍は将軍の死去を公にして、朝廷に休戦の締結を申し入れ成功する。慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に徳川慶喜が十五代将軍に就任する。同年十二月二十五日(同年1月30日)に孝明天皇が崩御される。慶応三年一月九日(同年2月13日)に祐宮睦仁親王が満14歳で践祚して明治天皇となる。

孝明天皇
明治天皇

 慶応三年(1867年)に松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城の四者で「四候会議」が開かれた。この「四候会議」での合議制により、幕府の権威を縮小して朝廷および雄藩連合による合議をもってこれに代えようと久光は画策していた。しかし徳川慶喜の朝廷に対する画策が成功し「四候会議」は崩壊する。これにより薩摩藩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に山内容堂の建白により徳川慶喜が明治天皇に政権を返上することを奏上する(大政奉還)。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に岩倉具視と薩摩藩、長州藩の主導で「王政復古の大号令」が明治天皇より発せられ、新政府が発足した。

岩倉具視

 慶応四年一月三日(1688年1月27日)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発する。明治二年五月十八日(1869年6月27日)に箱館戦争が終結 して戊辰戦争が終わる。春嶽は明治三年七月十三日(1870年8月9日)に政務を引退する。

 明治二十三(1890)年六月二日に松平春嶽は薨去。六十一年の生涯を終えた。

伝記・評伝

松平春嶽 「幕末四賢侯」と称された名君 (PHP文庫)

正伝・松平春嶽

松平春嶽 (人物叢書)

幕末維新と松平春嶽


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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