阿部正外

阿部正外

概要

 阿部正外(あべまさと/まさとう)文政十一年戊子(つちのえね25)一月一日(1828年2月15日)生誕-明治二十(1887)年四月二十日逝去(五十九歳)は、江戸時代末期の旗本、老中、陸奥国白河藩七代藩主。旗本だったが、後に本家を継いで大名となり、幕府の要職を歴任する。

経歴

 文政十一年(戊子つちのえね25)一月一日(1828年2月15日)に阿部正外は旗本の父・阿部正蔵の次男として誕生する。

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老に拝命され就任する。阿部は井伊から重用され、安政六年(1859年)に公武合体推進のため和宮親子内親王の江戸下向を朝廷と工作する禁裏付に任命される。上洛して京都所司代の酒井忠義と共に朝廷工作に尽力した。

井伊直弼
和宮親子内親王

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。阿部は直弼が暗殺された後も引き続き朝廷と打ち合わせを進め、和宮親子内親王の下向の目途が付く。

 文久元年十一月十一日(1860年3月24日)に神奈川奉行に転任する。文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に生麦事件が起こる。阿部は生麦事件の対応に尽力した。同年閏八月四日(同年9月27日)に外国奉行に就任する。文久三年四月二十三日(1863年6月9日)に北町奉行に就任した。

 元治元年三月四日(1864年4月9日)に幕命により白河藩を相続する。阿部は10万石の大名に出世した。同年六月二十四日(同年7月27日)に老中に就任する。

 上洛反対派の老中を失脚させ徳川家茂が3度目の上洛に随行する。慶応元年閏五月十二日(1865年7月14日)に家茂とともに朝廷に参内した。派兵を命じた白河藩兵が約1200人、陸路と海路に分かれて大坂城に集結した。

徳川家茂

 慶応元年九月二十三日(1865年11月11日)にイギリス、フランス、オランダの3ヶ国から要請されていた兵庫開港と大坂開市をめぐって兵庫で交渉を開始する。阿部は他の老中や家茂と協議の上で、やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。しかし勅許を得るため外国との交渉延期を主張した一橋慶喜の意見が通り3か国交渉の結果延期と決まる。朝廷は阿部と松前崇広の違勅を咎め、両名の官位を剥奪して謹慎の勅命を下す。

一橋慶喜

 慶応元年十月一日(1865年11月11日)家茂は阿部正外と松前崇広を老中職から外して官位召し上げ、国元謹慎処分にする(兵庫開港要求事件)。阿部は同年十一月八日(同年12月25日)に白河へ到着して謹慎する。慶応二年六月十九日(1866年7月30日)に隠居、蟄居を命じられ、長男の正静が家督を継ぐ。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられ、慶応四年一月二日(1868年1月26日)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。阿部家は奥羽越列藩同盟と組んで明治新政府軍と戦う。正静の守る白河城が新政府軍に落とされ、残兵と正外らは保原の藩分領に逃走した。阿部家は保原陣屋で新政府軍に降伏する。藩領は6万石から4万石に減らされた。

 明治二十(1887)年四月二十日に阿部正外は逝去。五十九年の生涯を終えた。


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