西郷隆盛(南洲)

西郷隆盛

概要

 西郷隆盛(さいごうたかもり)(旧字体:西鄕隆盛)文政十年戊子(つちのえね25)十二月七日(1828年1月23日)生誕-明治十(1877)年九月二十四日薨去(四十九歳)は、薩摩藩士、政治家。通称、吉之助。号は南洲(なんしゅう)

経歴

 1828年1月23日(文政10年12月7日)戊子(つちのえね25)に西郷隆盛は薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で御勘定方小頭の父・西郷九郎隆盛の長男として誕生する。

 天保十年(1839年)に西郷は喧嘩の仲裁に入いり、上組の郷中が抜いた刀が右腕内側の神経を切り、刀を握れなくなったため武術を諦めた。西郷は学問で身を立てようと志す。伊藤茂右衛門に陽明学、島津家の菩提寺の福昌寺の無参和尚に禅を学ぶ。

 『近思録』を輪読する会を大久保利通、税所篤(さいしょあつし)、吉井友実らとつくる。このメンバーが精忠組の基礎となる。

大久保利通
税所 篤
吉井友実

 嘉永四年二月二日(1851年3月4日)に薩摩藩十代藩主の島津斉興(しまづなりおき)が隠居して島津斉彬が十一代薩摩藩主となる。西郷は嘉永五年(1852年)須賀と結婚する。安政元年 (1854年)に斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、西郷は江戸に赴く。

島津斉彬

 西郷は下級藩士であったが、藩主の島津斉彬に抜擢され「御庭方役」となりる。西郷は斉彬から直接教えを受けるようになる。水戸藩士の藤田東湖に会い、国事について教えを受けた。越前藩士の橋本左内が来訪し、国事を話し合う。

藤田東湖
橋本左内

 鹿児島では西郷家の貧窮の苦労を見かねた妻の実家の伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまう。以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになる。

 安政三年七月(1856年8月)に西郷は斉彬の密書を水戸藩主の徳川斉昭に届ける。同年十一月(同年12月)に第十三代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚する。斉彬の考え方は篤姫を通じて一橋慶喜を十四代将軍にして賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするものだった。

徳川斉昭
徳川家定
篤姫
一橋慶喜

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老に就任する。同年八月四日(同年6月25日)に十四代将軍が徳川家茂に決定した。直弼は徳川斉昭らの一橋派および尊王攘夷の志士を弾圧する(安政の大獄)。

井伊直弼
徳川家茂

 斉彬は井伊の弾圧に対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画する。鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して安政五年七月十六日(1858年8月24日)に急病で薨去する。西郷は京都で斉彬の訃報を聞き、斉彬の遺志を継ぐことを決意する。

 近衛家から保護を依頼された尊王攘夷派の僧侶・月照は平野国臣に伴われ鹿児島に来る。幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを日向国へ追放することに決定した。西郷は月照と平野らとともに乗船したが、西郷は前途を悲観して、月照とともに入水する。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生した。藩当局は幕府の目を隠すために西郷の職を免じて奄美大島に潜居させることにした。

 島では美玉新行の家を借りて自炊する。この間、龍家の一族の佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。万延二年一月二日(1861年2月11日)に愛加那との間に菊次郎が誕生する。

 文久元年十月(1861年11月)に十二代薩摩藩主の父・島津久光は公武周旋に乗り出す決意をする。大久保利通らの進言で西郷に召還状を出す。西郷は召還状を受け取ると、奄美大島で世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのちに文久二年二月十二日(1862年3月12日)に鹿児島へ到着した。

島津久光

 西郷は下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた。西郷は大坂へ向けて出航し、激派志士たちの京都焼き討ちや挙兵の企てを止めようと試みる。姫路に着いた久光は西郷が待機命令を破ったこと、志士を煽動していると報告を受けたことから激怒して西郷、村田、森山の捕縛命令を出す。

 西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島を命ぜられる。江戸へ上府していた島津久光は、家老たちが西郷を徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部への島替えのうえ牢込めにして決して開けてはならぬと厳命した。

 イギリスは文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に起こった生麦事件の解決と補償を迫る。文久三年七月二日(1863年8月15日)にイギリス艦隊は薩摩藩兵と鹿児島湾で激突した。この戦闘を通じて薩摩藩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、以後両者が一転して接近していく契機となる。

 薩英戦争後の公武周旋に動く人材の不足のため、久光は大久保利通や小松帯刀らの勧めもあり西郷を赦免召還することを決める。元治元年二月二十八日(1864年4月4日)に西郷は鹿児島に帰藩する。同年三月十四日(同年4月19)に京都に到着して軍賦役(軍司令官)に任命される。

小松帯刀

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に禁門の変が勃発する。長州藩勢は敗北して尊王攘夷派は急進的指導者の大半を失う。尊王攘夷派はその勢力を大きく後退させることとなる。同年七月二十三日(同年8月24日)に長州藩追討の朝命が禁裏御守衛総督の一橋慶喜から発せられた。

一橋慶喜

 西郷は元治元年九月十一日(1864年10月11日)に大坂で軍艦奉行の勝海舟と会談した。海舟の案で長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにする。同年十月十二日(同年11月11日)に西郷は征長軍参謀に任命される。同年十月二十四日(同年11月23日)に大坂で征長総督・徳川義勝にお目見えして意見を具申したところ長州処分を委任された。

勝海舟
徳川義勝

 西郷は慶応元年一月(1865年2月)に鹿児島へ帰り、藩主父子に報告を済ませる。同年一月二十八(同年2月23日)に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚する。

 慶応二年一月二十一日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸で坂本龍馬を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が6か条の同盟を締結する。

桂小五郎(木戸孝允)

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊が屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、戦闘が開始された。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍・徳川家茂が大坂城で急病により薨去される。幕府軍は将軍の死去を公にして朝廷に休戦締結の勅許を成功させる。

 慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に徳川慶喜が将軍宣下を受け十五代将軍に就任する。慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど実質的に政権は畿内でおこなわれた。慶喜の将軍就任から20日後の同年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御される。’慶応三年一月九日(1867年2月13日)に睦仁親王が践祚して明治天皇として皇位継承された。

孝明天皇
明治天皇

 慶応三年三月二十五日(1867年4月29日)に西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京する。同年五月二十一日(1867年6月23日)に中岡慎太郎の仲介によって、西郷らは京都の小松帯刀邸にて、土佐藩士・板垣退助、谷干城らと武力討幕の薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ。

中岡慎太郎
板垣退助
谷干城

 薩土討幕の密約(薩土密約)を締結した一ヶ月後の慶応三年六月二十二日(1867年7月23日)に今度は坂本龍馬、後藤象二郎らが西郷と会談して武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結する。

後藤象二郎

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が明治天皇へ政権返上をして、翌日天皇が奏上を勅許する(大政奉還)。大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体論を樹立することにあった。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)18時頃から、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内容堂ら公議政体派は徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張する。岩倉らのペースで会議は進められ「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定した。

岩倉具視
山内容堂

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に大坂の旧幕軍が上京を開始して幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まる。西郷はこの日に伏見の戦線、一月五日(1月29日)に八幡の戦線を視察して戦況が有利になりつつあるのを確認する。翌日の一月六日(1月30日)に徳川慶喜は松平容保、松平定敬、老中、大目付、外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。新政府は慶喜追討令を出し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出す。

松平容保
松平定敬
有栖川宮熾仁親王

 西郷と勝海舟の会談後、慶応四年四月十一日(1868年5月3日)にイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」が実行される。同年五月十五日(同年7月4日)上野戦争が始まり、旧幕府軍は敗退する。

 明治二年五月十八日(1869年6月27日)に榎本武揚ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭して昼には五稜郭が開城される。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。

榎本武揚
五稜郭

 明治四年七月二十九日(1871年9月13日)頃に新政府は以下のような顔ぶれとなる。太政大臣・三条実美。右大臣兼外務卿・岩倉具視。参議・西郷隆盛。同・木戸孝允。同・板垣退助。同・大隈重信。大蔵卿・大久保利通。文部卿・大木 喬任。兵部大輔・山縣有朋。大蔵大輔・井上馨。文部大輔・江藤新平。工部大輔・後藤象二郎。司法大輔・佐々木高行。宮内大輔・万里小路博房。外務大輔・寺島宗則。

 明治四年十一月十二日(1871年12月23日)に特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発する。使節団と留守政府は重大な改革を行わないと合意する。

 李氏・朝鮮問題は明治元年(1868年)に李朝が明治新政府の国書の受け取りを拒絶したことが発端だった。進展しない原因とその対策を知る必要があって西郷、板垣退助、副島種臣らは調査のため、明治五(1872)年八月十五日に清国、ロシア、朝鮮に探偵を満洲と釜山に派遣した。参議・板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した。西郷は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。

 明治五(1872)八月十六日に西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する。このため翌日の十七日の閣議で西郷の遣使は決定された。明治天皇に決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下される。

 明治六(1873)年九月十三日に岩倉具視が帰国する。木戸孝允と大久保利通はいずれも内治優先の考えをもっていた。大物である西郷を失うことになる遣使に反対する声が西郷に近い薩摩派の中にあった。大久保は維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残す。一方、西郷は明治六(1873)年十月十一日に決定が変更されるならば自殺すると、半ば脅迫的な書簡を三条宛に提出した。翌日十三日に大久保と征韓派の副島種臣が参議に復帰する。

 明治六(1873)年十月十四日に岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張する。板垣、江藤、後藤、副島らは遣使の延期について同意する。西郷は即時派遣を主張した。翌日十五日の閣議で、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求する。

 明治六(1873)年十月十八日に三条は病に倒れる。同年十月二十二日に岩倉が太政大臣摂行に就任して西郷、板垣、副島、江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。

 岩倉は明治六(1873)年十月二十三日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べた上で明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上する。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出して帰郷の途についた。

 下野した西郷は明治六(1873)年十一月十日に鹿児島に帰着する。以来、大半を武村の自宅で過ごす。明治七(1874)年三月一日に佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪して翌日、西郷は指宿まで見送る。

 西郷の下野に同調した軍人や警吏が相次いで帰県した明治六年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になる。有志者が西郷に相談して県令・大山綱良の協力を得て、明治七(1787)年六月頃に旧厩跡に私学校がつくられる。

 明治九(1876)年三月に廃刀令が出される。八月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。

 明治十(1877)年一月二十日頃、西郷はこの時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱が間近かと見て、同年一月二十八日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出す。

 薩摩軍は募兵と新兵教練を明治十(1877)年二月十三日に終わり大隊編制が行われる。翌十四日に私学校本校横の練兵場で西郷による正規大隊の閲兵式が行われる。十五日に薩摩軍の一番大隊が鹿児島から先発して西南戦争が始まる。

 明治十(1877)年二月二十日に別府晋介の大隊が川尻に到着する。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。同年三月一日から始まった田原をめぐる戦いは激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。二十日に兵の交替の隙を衝かれ、田原を政府軍に奪われる。

 明治十(1877)年五月三十一日に桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着く。ここが新たな本営となる。この軍務所では、桐野の指示で薩摩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。

 明治十(1877)年八月十五日に和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し西南戦争最後の大戦を挑む。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野、村田、池上、別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮した。薩摩軍が大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退ぞく。

 明治十(1877)年九月一日に薩摩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩摩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制して九月六日に城山包囲態勢を完成させた。

 明治十(1877)年九月二十四日午前4時に政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、村田新八ら将士40余名は洞前に整列して岩崎口に進撃する。島津応吉久能邸門前で西郷は股と腹に被弾する。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座して遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。西郷隆盛は四十九年の生涯を終えた。

伝記・評伝

西郷隆盛 新装版 (角川文庫)

素顔の西郷隆盛 (新潮新書)

西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
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三国志演義 Ⅰ

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