河田小龍

河田小龍

概要

 河田小龍(かわだしょうりょう)文政七年甲申(きのえさる21)十月二十五日(1824年12月15日)生誕 – 明治三十一(1898)年十二月十九日逝去(七十四歳)は日本画家、思想家。通称篤太郎、本名は維鶴(これたず)。号は小梁、松梁、皤山、小龍、翠竹斎、半舫斎。

経歴

 文政七年甲申(きのえさる21)十月二十五日(1824年12月15日)に河田小龍は土佐国高知城東浦戸片町水天宮下(現、高知市丸ノ内一丁目)御船方の軽格の藩士の父・土生玉助維恒の長男として誕生する。祖父の川田金衛門の生家・河田家を継ぎ川田姓を名乗り後に河田姓を名乗る。

 弘化元年(1844年)に京都に遊学し、京狩野家九代目の狩野永岳(かのうえいがくに師事する。

 天保十二年一月五日(1841年1月27日)に土佐国の漁師中浜万次郎(なかはままんじろう)は足摺岬沖の鯖漁で遭難し離島に漂着したところ、アメリカの捕鯨船に救助された。アメリカに渡った万次郎は10年間、捕鯨生活と熱心に勉学に励み、嘉永四年七月三十日(1851年8月26日)に薩摩藩に帰国する。

中浜万次郎

 薩摩藩では万次郎を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。薩摩藩での取調べの後、万次郎は長崎に送られ、幕府長崎奉行所等で長期間尋問を受けた。踏み絵でキリスト教徒でないことを証明し、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ土佐に向う。

島津斉彬

  万次郎は土佐藩士・吉田東洋と小龍に取り調べをうけた。小龍は藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させて起居を共にしながら毎日役所に出頭した。万次郎に読み書きを教えつつ、小龍自身も英語を学び、お互いの友情を感じるまでの仲となる。万次郎は約2か月後帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永四年(1852年)に、漂流から11年目で故郷に帰ることができた。

吉田東洋

  小龍は万次郎の語りを一切の私見を加えず、小龍の挿絵を加えて『漂巽紀畧五巻』として上梓し、藩主に献上した。同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとになる。

 小龍は坂本龍馬に外国の大船を買い、人と荷物を積み海洋に乗り出し、『貿易』によって異国に追いつく事が日本のとるべき道だと自説を語る。

坂本龍馬

 小龍は明治十一年(1878年)に江戸時代後期から明治始めにかけて土佐の絵師に好まれた画題である吸江十景をまとめた冊子『吸江図誌』を好々堂から出版する。

 明治二十一年(1888年)小龍は京都へ移住する。明治二十二年(1889年)に京都府疏水事務所の庶務付属に採用され、琵琶湖疏水(びわこそすい)工事記録画の作成に当る。

 明治三十一(1898)年十二月十九日に河田小龍は逝去。七十四年の生涯を終えた。

著作・伝記・評伝

漂巽紀畧 全現代語訳 (講談社学術文庫)

龍馬を創った男 河田小龍

龍馬の運命を決めた五人の男 (静山社文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA