世良修蔵

世良修蔵

概要

 世良 修蔵(せら しゅうぞう)天保六年乙未(きのとひつじ32)七月十四日(1835年8月8日)生誕 -慶応四年閏四月二十日(1868年6月10日)逝去(三十二歳)は、江戸時代末期の長州藩士。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)七月十四日(1835年8月8日)に周防国大島郡 椋野村の庄屋・中司家の子として誕生。十七歳の時萩藩の藩校、明倫館で学ぶ。後に大畠村で時習館で学ぶ。さらに江戸で儒者・安井息軒の三計塾で学び、塾長代理をつとめた。周防国阿月領主・浦元襄(うらもととし)が開設した私塾・克己堂の兵学などの講師として仕官し浦家の家臣となる。

 下関戦争敗戦後に長州藩において奇兵隊が組織されると、後に三代目総督となる同郷・同門の赤禰武人(あかね たけと)の招聘を受けて、文久三年(1863年)頃に奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。慶応二年(1866年)に赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年四月に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している。この際、浦家の家臣である世良家の名跡を継いだ。

 世良は慶応四(1868)年一月に幕府方との鳥羽伏見の戦い際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。その後は薩摩の大山格之介と共に新政府の奥州鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争において、同年三月に会津征伐のために総督・九条道孝以下五百余名と共に派遣され、同年三月二十三日、仙台藩の藩校養賢堂に本陣を置いた。

 世良は仙台藩士を嘲り、傍若無人な振る舞いもあるなど、次第に周囲からの反感を高めていく 慶応四(1868)年閏四月十二日、仙台藩・米沢藩による会津救済嘆願があったが、世良ら総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢をとった。

 世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに記した密書(「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士・瀬上主膳、姉歯武之進はその内容に激昂し、世良の暗殺実行を決意する。

 世良修蔵は慶応四年閏四月二十日(1868年6月10日)に暗殺され三十二年の生涯を終えました。

伝記・評伝

世良修蔵 (復刻版)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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