安藤信正

安藤信正

概要

 安藤信正(あんどうのぶまさ)文政二年庚辰(かのえたつ17)十一月二十五日(1820年1月10日)生誕-明治四年十月八日(1871年11月20日)逝去(五十一歳)は、江戸時代末期の陸奥国磐城平藩五代藩主。対馬守系安藤家十代。老中。

経歴

 文政二年庚辰(かのえたつ17)十一月二十五日(1820年1月10日)に安藤信正は磐城平藩江戸藩邸で磐城平藩四代藩主の父・安藤信由と大河内松平信明の娘の母の嫡男として誕生する。

 天保六年三月十五日(1835年4月12日)に十一代将軍・徳川家斉に御目見した。天保六年十二月十六日(1836年2月2日)に従五位下伊勢守に叙任される。後に長門守、対馬守と改める。

徳川家斉

 弘化四年八月二日(1847年9月11日)に父の死により家督を継ぐ。弘化五年一月二十三日(1848年2月27日)に奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)に就任する。安政五年八月二日(1858年9月8日)に寺社奉行を経て、大老井伊直弼の下で若年寄に就任した。

井伊直弼

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外で井伊直弼が暗殺された。安藤は直弼により罷免されていた久世広周(くぜひろちか)を老中に再任させて以後、安藤と久世が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となる。

久世 広周

 安藤は井伊直弼の強権による政策を改めて穏健政策を取ることで朝廷と幕府の関係を深めていこうと考える(公武合体派)。安藤の公武合体策の実績は孝明天皇の妹和宮が十四代将軍徳川家茂への降嫁を実現させたことだった。

和宮
徳川家茂

 文久二年一月十五日(1862年2月13日)に江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人が安藤を襲撃して負傷させた(坂下門外の変)。一部の老中から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声が上がる。

 文久二年四月十一日(1862年5月9日)に安藤は老中を免職され、江戸城の溜間詰格となる。同年八月十六日(同年9月9日)に隠居謹慎処分となり、同年十一月二十日(1863年1月9日)に永蟄居処分を言い渡される。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上する。翌日十五日(10日)に勅許される(大政奉還)。

徳川慶喜

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)はクーデターを起こし朝廷を掌握、公家の岩倉具視が「王政復古の大号令」を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

岩倉具視

 安藤は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わり、新政府軍と戦ったが敗れた。安藤は降伏し、謹慎を余儀なくされた。明治二年九月十日(1869年10月14日)に永蟄居の処分が解かれた。

 明治四年十月八日(1871年11月20日)に安藤信正は逝去。五十一年の生涯を終えた。

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