ジョン万次郎

                     ジョン万次郎

概要

 ジョン万次郎(ジョンまんじろう)(旧字体:ジョン萬次郎)(英語:John Manjirō)本名、 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)文政十年丁亥(ひのとい24)一月一日(1827年1月27日)生誕 – 明治三十一(1898)年十一月十二日逝去(六十六歳)は、江戸末期から明治にかけてのアメリカ合衆国へ漂流した日本人。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)一月一日(1827年1月27日)にジョン万次郎は土佐高知藩知行中ノ浜村(現、高知県土佐清水市中浜)で父・悦介(えつすけ)と母・汐(しお)の次男として誕生する。

 10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに出る。天保十二年一月五日(1841年1月27日)に早朝の宇佐浦で万次郎は、足摺岬沖での鯖漁に出航する漁船で炊事と雑事を行う係として乗り込む。万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中に突然の強風で船ごと吹き流され、航行不能となって遭難した。

 伊豆諸島の無人島に漂着して143日間を生き延る。天保五年五月九日(1841年6月27日)に万次郎達はウイリアム・ホイットフィールド船長が率いるアメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。

 日本は鎖国していたため、万次郎は故郷へ生還することができなくなり、捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。万次郎を除く4名は、ハワイ王国で下船して万次郎は捕鯨船員となってアメリカ本土に向かう。

 1843年5月7日にジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終えて万次郎はマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港する。同年にオックスフォード・スクールで小学生に混じり英語を学ぶ。

 1844年に万次郎はフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び首席で卒業する。卒業後は桶屋で働く。ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選択した。

 万次郎は帰国の資金を得るために金を採掘する職に就く。知人と自ら掘り、そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り土佐の漁師仲間と再会した。

 1850年12月17日に知己であった宣教師の協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航する。

 嘉永四年二月二日(1851年3月4日)に薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図る。同年七月三十日(同年8月26日)に薩摩に到着した。そして薩摩藩の取調べを受ける。藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。

島津斉彬

 薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ江戸幕府の長崎奉行所で尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明した。その後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ土佐に向う。万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録して後に『漂巽紀略』を記した。坂本龍馬は河田を訪れて海運の重要性について学ぶ。万次郎は嘉永五年(1852年)に帰郷が許される。漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。

                     河田小龍
坂本龍馬

 帰郷後すぐに万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。「教授館」では後藤象二郎や岩崎弥太郎などを教えた。

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)17時にアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マーシュ・ペリーが率いる艦船が浦賀沖に来航する。対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。

マシュー・ペリー

 万次郎は江川英龍(えがわひでたつ)の配下となる。勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)からアメリカの情報を聞かれた。1856(安政2)年に軍艦教授所教授に任命されて造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たる。大鳥圭介(おおとりけいすけ)、箕作麟祥(みつくりりんしょう)などが万次郎から英語を学ぶ。 

江川 英龍
川路 聖謨
大鳥圭介
箕作麟祥

 安政元年(1854年)に幕府剣道指南の団野源之進の娘、鉄と結婚する。万延元年(1860年)に日米修好通商条約の批准書を交換するための万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)団の1人として、船長の勝海舟が率いる咸臨丸に乗りアメリカに渡る。帰国時に同行の福沢諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

勝海舟
福沢諭吉

 慶応二年(1866年)に土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。慶応三(1867年)に薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授した。明治維新後の明治二年(1869年)に明治政府により開成学校(現、東京大学)の英語教授に任命される。明治三年(1870年)に普仏戦争(ふふつせんそう)視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣された。

                開成学校
大山巌

  明治三十一(1898)年十一月十二日にジョン万次郎は逝去。六十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

中濱万次郎―「アメリカ」を初めて伝えた日本人

椿と花水木 万次郎の生涯(上) (幻冬舎時代小説文庫)

ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂 (集英社文庫)

ジョン・マン 1 波濤編 (講談社文庫)


三国志演義 第一巻
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