小栗忠順

                     小栗忠順

概要

 小栗忠順(おぐりただまさ)文政十年丁亥(ひのとい24)六月二十三日(1827年7月16日)生誕-慶応四年閏四月六日(1868年4月28日)逝去(四十歳)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。通称は又一。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)六月二十三日(1827年7月16日)に小栗忠順は江戸駿河台の屋敷で旗本の父・小栗忠高の子として誕生する。幼名は剛太郎。8歳から小栗家の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門する。成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮した。

 天保十四年(1843年)に十七歳になり登城する。文武の才を注目されて若くして両御番となる。嘉永二年(1849年)に林田藩、前藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚する。

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官のマーシュ・ペリーが率いる4隻の艦隊が浦賀沖に来航する。小栗はこの頃から外国との積極的通商を主張して造船所を作るという発想を持った。安政二年(1855年)に父・忠高が死去して家督を相続した。

マーシュ・ペリー

 嘉永七年三月三日(1854年3月31日)に日米和親条約が締結された。安政五年六月十九日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が締結された。批准書の交換はワシントンで行うと定められた。小栗は目付として使節団に加わり、安政七年一月十八日(1860年2月9日)に品川沖でポーハタン号に乗船して米国に向かう。 

 サンフランシスコに到着後に小栗は「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受ける。その際に「目付とはCensor(監察官)である」と主張する。帰国後に外国奉行に就任する。

 文久二年(1862年)に勘定奉行に就任して名乗りを小栗豊後守から小栗上野介に変更する。文久三年(1863年)に小栗は製鉄所建設案を幕府に提出する。十四代将軍・徳川家茂は製鉄所建設案を承認した。慶応元年十一月十五日(1866年1月1日)に横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設が開始される。

徳川家茂

 小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのフランソワ・レオンス・ヴェルニーを任命する。これは幕府公認の事業では初の事例だった。職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された。

 小栗は更なる軍事力強化のため幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還する。翌年慶応四年(1867年)に鳥羽伏見の戦いの後、戊辰戦争が始まる。

徳川慶喜

 小栗は榎本武揚、大鳥圭介らと徹底抗戦を主張した。慶喜と勝海舟は恭順論を主張した。慶応四年一月十五日(1868年2月8日)に江戸城にて御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。同年一月二十八日(同年2月21日)に「上野国群馬郡権田村(現、群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出する。

 小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。慶応四年閏四月四日(1868年4月26日)に小栗は東善寺にいるところを捕縛される。捕縛から2日後の慶応四年閏四月六日(1868年4月28日)に斬首された。小栗忠順は四十年の生涯を終えた。

伝記・評伝

小説 小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 (集英社文庫)

小栗忠順のすべて

覚悟の人 小栗上野介忠順伝 (角川文庫)

小栗忠順従者の記録―幕末遣米使節


三国志演義 第一巻
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