頼三樹三郎

頼三樹三郎

概要

 頼三樹三郎(らいみきさぶろう)文政八年乙酉(きのととり22)五月二十六日(1825年7月11日)生誕 – 安政六年十月七日(1859年11月1日)逝去(三十四歳)は、江戸時代末期の儒学者。諱は醇。通称、三木八。号、鴨崖。頼山陽(らいさんよう)の三男。

頼 山陽

経歴

 文政八年乙酉(きのととり22)五月二十六日(1825年7月11日)に頼三樹三郎は京都三本木で儒学者の父・頼山陽と近江商人の疋田藤右衛門の四女の母・梨影(りえ)の三男として誕生する。

 天保十一年(1840年)に大坂の儒学者の後藤松陰や篠崎小竹らに学ぶ。天保十四年(1843年)に江戸で儒学を学ぶ。しかし、尊王思想から徳川幕府に反感を持ち、上野の寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分となる。

 東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と知り合う。嘉永二年(1849年)に京都に戻り、勤王の志士として活動する。母の死後、家族を捨てて勤王運動にのめり込む。

松浦武四郎

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊の4隻の軍艦が浦賀沖に停泊する。世の中が騒然となり、尊王攘夷運動が盛んとなる。そのような状況下で、溜詰筆頭の井伊直弼が大老職に就任する。

マシュー・ペリー
井伊直弼

 十三代将軍徳川家定の病状が悪化して幕府内で南紀派と一橋派による、将軍後継者争いが起きる。大老井伊直弼は南紀派の首領で、紀伊藩主の徳川慶福(徳川家茂)を将軍に推挙する。一橋派は一橋慶喜(徳川慶喜)を推挙する。三樹三郎は尊王攘夷推進と慶喜擁立を求めて朝廷に働きかける。

徳川家定
徳川慶福(徳川家茂)
一橋慶喜(徳川慶喜)

 三樹三郎は井伊直弼から危険人物の一人とみなされ、、江戸の阿部家福山藩邸で幽閉される。父・山陽の弟子である福山藩主の侍講、石川和助は、三樹三郎の助命嘆願を行う。しかし幕府は、安政六年十月七日(1859年11月1日)に三樹三郎を江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内らとともに斬首する。頼三樹三郎は三十四年の生涯を終えた。

伝馬町牢屋敷跡
橋本左内

伝記・評伝

頼三樹三郎 (1974年)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA