岩倉具視

岩倉具視

概要

 岩倉具視(いわくらともみ)文政八年乙酉(きのととり22)九月十五日(1825年10月26日)生誕- 明治十六(1883)年七月二十日薨去(五十七歳)は、公家、政治家。雅号、対岳。維新の十傑の1人。

経歴

 文政八年乙酉(きのととり22)九月十五日(1825年10月26日)に岩倉具視は京都で公卿の父・堀河康親(ほりかわやすちか)と公卿の勧修寺経逸(かじゅうじつねはや)の娘の母・吉子の次男として誕生する。

 天保九年八月八日(1838年9月26日)に岩倉具慶(いわくらともやす)の養子となり、具視を名のる。天保九年十二月十一日(1839年1月25日)に元服して昇殿を許される。

 安政五年一月(1858年2月)に幕府老中の堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を得るため上京する。関白の九条尚忠(くじょうひさただ)は勅許を与えるべきと主張する。岩倉は条約調印に反対の立場であり、反九条派の公家達を結集させて同年三月十二日(同年4月25日)に公卿88人で参内して抗議する。

堀田 正睦

 日米修好通商条約は岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。岩倉は初めての政治運動に勝利した。

 安政五年六月十九日(1858年7月29日)に幕府大老・井伊直弼がやむを得ず朝廷の勅許なしで日米修好通商条約を締結する。これを知った孝明天皇は激怒する。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々に条約を締結した。孝明天皇は同年八月八(日同年9月14日)に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した(戊午の密勅:ぼごのみっちょく)。

井伊直弼
孝明天皇

 井伊は尊攘派や一橋派に対する大弾圧を発動した(安政の大獄)。岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧した。岩倉は京都所司代の酒井忠義らと会談し、「朝廷と幕府の対立は国家の大過である」と説く。この後、岩倉は幕府寄りの姿勢をとる。

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)。井伊が暗殺されたことで、幕府の権威が失墜した。幕府は権威を回復させる策として、四老中連署で皇妹の和宮を将軍の徳川家茂への降嫁(こうか)を希望する書簡が京都所司代より九条尚忠に提出された。

和宮
                 徳川家茂

 岩倉は『和宮御降嫁に関する上申書』を孝明天皇に提出した。孝明天皇は安政七年六月二十日(1860年8月6日)に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条尚忠を通じて京都所司代に伝える。

 文久元年十月二十日(1861年11月22日)に和宮は桂御所を出て江戸へ下向し、岩倉は江戸に随行する。

 尊王攘夷運動が各地で高まりを見せるようになる。岩倉は和宮降嫁に賛成し、京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから、尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。

 岩倉は孝明天皇に佐幕派と疑われ、文久二年八月二十日(1862年9月5日)に蟄居処分を命じられ、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられる。岩倉は辞官して出家する。

 慶応二年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御された。慶応三年一月九日(1867年2月13日)に明治天皇が即位する。慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に徳川慶喜が政権を朝廷に返上した(大政奉還)。岩倉は同年十一月(同年12月)に朝廷から赦免される。

明治天皇
                    徳川慶喜

 赦免された岩倉は薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加する。

大久保利通
後藤象二郎
中御門経之
中山忠能
正親町三条実愛

 慶應三年十二月九日(1868年1月3日)に「王政復古の大号令」を発し、新政府が樹立する。松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、新政府の決定を慶喜に通告する。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能と返答した。

松平春嶽
徳川慶勝

  慶応四年一月三日(1868年1月27日)の午前に鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲した。桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始したが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却する。

 慶応四年一月六日(1868年1月30日)に大坂城にいた慶喜は、緒戦での敗退の報とともに、薩長軍が錦の御旗を掲げた事を知る。これにより「徳川家と薩摩藩の私戦」という慶喜が描いていた構図は崩れる。旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説く。しかし慶喜はその夜側近と老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、老中・酒井忠惇(さかいただとし)、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)、桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)らと共に密かに城を脱して大坂湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。

板倉勝静
松平 容保
松平定敬

 明治元年四月十一日(1868年5月3日)に江戸城は無血開城となり、徳川慶喜に死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。徳川征伐に勝利した岩倉は新政府での発言力が大きく増すことになる。明治元年十月十三日(1868年11月26日)に明治天皇は東京城に入城する。

 明治四年十一月(1871年12月)に岩倉は条約改正の使節団の特命全権大使として横浜港を出港して1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡した。岩倉不在の新政府では、西郷隆盛が朝鮮に開国を通告することを閣議で決定した。

西郷隆盛

 明治六(1873)年九月十三日に岩倉は帰国した。西郷の征韓論に異議を唱え、不服とした西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へと帰国する。西郷派の板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らの参議も辞職する。

板垣退助
江藤新平
後藤象二郎
副島種臣

 征韓論を支持する不平士族から政府への不満が噴出し、明治七(1874)年一月十四日夜八時過ぎに、赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉が不平士族に襲撃される事件が発生(喰違の変)が起こる。岩倉は負傷したが命に別条はなかった。さらに同年二月一日に、佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱(佐賀の乱)が起こる。そして明治十年(1877年)に西郷を大将とする西南戦争が勃発する。

 明治九(1876)年四月十九日に岩倉は、華族会館の館長に就任する。岩倉は華族の使命は欧州型の貴族を目指し、皇室を支える華族を考えていた。また華族の財産の保護として十五銀行を設立する。

 明治十六(1883)年七月二十日に岩倉具視は薨去。五十七年の生涯を終えた。

伝記・評伝

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