河井継之助

河井継之助

概要

 河井継之助(かわいつぎのすけ)(正字体:繼之助)文政十年丁亥(ひのとい24)一月一日(1827年1月27日)生誕 -慶応四年八月十六日(1868年10月1日)逝去(四十一歳)は、江戸時代末期の越後長岡藩士。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)一月一日(1827年1月27日)に河井継之助は長岡城下の長町で父・河井代右衛門秋紀と母・貞との長男として誕生する。藩校・崇徳館で儒学を学び、高野松陰の影響で陽明学を学ぶ。

                 長岡城

 天保十三年(1842年)に元服する。名を継之助秋義と名乗る。十七歳の時に継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、藩を支える名臣になることを誓う。嘉永三年(1850年)に梛野嘉兵衛の妹・すがと結婚する。

 継之助は青年時代から主に日本や中国の宋、明時代の儒学者、哲学者の語録や明、清時代の君主に対する意見書を写本した。多読より精読を重んじた。継之助は同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせて勉学に励む。

 嘉永五年(1852年)秋に継之助は江戸に遊学する。継之助は斎藤拙堂(さいとうせつどう)の門人となる。同じ頃に佐久間象山の塾に入塾して砲術を学ぶ。嘉永六年(1853年)に継之助は斎藤のもとを去り、古賀謹一郎(こがきんいちろう)の久敬舎に入門した。

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)17時にマーシュ・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊4隻が、浦賀沖に現れる。江戸幕府老中の藩主・牧野忠雅(まきのただまさ)は家臣らに対し広く意見を求めた。

  マーシュ・ペリー

 

牧野 忠雅

 継之助の建言は牧野忠雅の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命されて帰藩を命じられる。『李忠定公集』全巻を写し終えて題字を認めてもらう。継之助は久敬舎を去り長岡へ帰藩する。

 安政六年(1859年)正月に継之助は再び江戸に遊学して再び古賀謹一郎の久敬舎に入塾する。経世済民学を修めるために備中松山藩の山田方谷の教えを請いに備中松山の遊学の旅に出る。継之助は方谷の藩政改革の成果を見て深く心酔するようになる。翌年帰藩する。

山田方谷

 文久二年(1862年年)に藩主・牧野忠恭(まきのただゆき)が京都所司代に就任すると継之助は京都詰を命じられた。忠恭は京都所司代の後に老中に任命される。継之助は公用人に命じられて江戸詰となる。継之助は忠恭に老中辞任を進言した。辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、公用人を辞し帰藩する。

牧野 忠恭

 慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任される。3ヶ月後に郡奉行に就任する。継之助は藩政改革に着手した。その後町奉行兼帯、奉行格加判と出世する。その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施する。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に徳川慶喜は朝廷に政権を返還する(大政奉還)。長岡藩では藩主・牧野忠恭は隠居して牧野忠訓が十二代藩主に就任する。継之助らは公武周旋のために上洛した。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に小御所会議において薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表が集まり、天皇を中心とする公議政体派、討幕強行派のペースで進み、明治天皇より王政復古の大号令が発せられた。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが勃発する。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。

 藩主らを先に長岡へ帰還させると、継之助は江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却する。その資金で米相場で軍資金を増やした。イギリス人武器商人のウォーターやアメリカ人武器商人のスミス、ファブルブラント商会からアームストロング砲などの最新兵器を購入して海路長岡へ帰還した。

 新政府軍が会津征討のため長岡に近い小千谷に迫ると、世襲家老の首座や上級家臣らが恭順して非戦を主張する。こうした状況で継之助は恭順派の動きを封じ込める。そして新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることにした。

 新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺で会談する。

 継之助は「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう。長岡領内への侵入と戦闘は断る。」と言いった。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。継之助が長岡藩の開戦の全権を掌握する。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督であった。

 長岡城が陥落し、継之助らは会津へ向けて落ちのびる。継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。会津若松へ向けて只見村を出発し、塩沢村(現、福島県只見町)に到着する。慶応四年八月十六日(1868年10月1日)に河井継之助は逝去。四十一年の生涯を終えた。

伝記・評伝

新潟県人物小伝 河井継之助


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
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